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自分が感銘を受けたあらゆるジャンルの作品を完全な主観で備忘録的に書きとめていきます。 ■このブログの続きとして、【2109年を生きるゲーム職人への手紙。】に移転しました。 ■ときどきネタバレを含むのでご注意のほどを。
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放映当時いろいろと興味深い作品だと思って観ていました。

惹かれるのに、どうしても好きになれない作品というのがあって、『交響詩篇エウレカセブン』もそうでした。

 

好きになれない理由が2つあります。


●一つ目は、『未成熟な大人の視点から物語が描かれていること』です。

「レントンの純粋な少年の視点」だけに絞り込んで描かれていれば、とても伸びやかで気持ちの良い作品に仕上がっていたのだろうと思いますが、残念ながらぼくには「大人の視点のいやらしさ」が強く感じられて、観るのをやめてしまいました。

映画で言えばカメラを持っている人間のアクというか、作品のフレームワークの問題でしょうか。


絵やドラマの創りそのものは、往年の「少年の成長物語」として創られていて、気持ちの良い雰囲気が生まれています。

ここは、とても好きです。


でも、その物語が「大人のどこか達観した視点」を土台に仕込まれている所為で、台無しになっているように感じます。

「大人の都合(悲哀の押し付け)」が、作品そのものを嘲笑してしまっているのです。

これは監督(もしくは企画チーム)からにじみ出てくる『個性(毒という表現でもいいです)』ではないかな、と思っています。


コンセプトメイクした人間の持つ社会への負の感情と視点が、作品に底流しているが為に、エウレカセブンのテーマが結果として毒に彩られたものになってしまったように感じられるのです。

(※「なってしまった」と書きましたが、そうコンセプトしたのかも知れません)


「未熟な大人の視点」だと最初に書いたのは、少年の成長ドラマを軸にした物語を、大人のぐだぐだした諦観や内情で横から中途半端に茶化してみせるな、とかいうことでなく(それも少しだけ思いますが)、もっと根本的な部分で『世界への不信感』をそのまま「伸びやかな少年の物語」に持ち込まないで欲しい……という、思いからです。

それは、エウレカセブンを象徴するこの言葉にも如実に表れています。

 

●『強請るな、勝ち取れ、さすれば与えられん!』

作品のメッセージを示す言葉なのだと思います。

全編を精査したわけではないので実は本当のメッセージはもっと違うのかもしれませんが、少なくとも作品のカラーを決定づける痛烈なメッセージ性を帯びた言葉であることに変わりはありません。


この言葉、2005年当時の、昨今の日本の若者の「気分」をとらえた言葉だと思います。

このキーワードを導き出した、という意味では、エウレカセブンの企画チームは凄いな、と感心します。

ですが、ぼくはどうしてもこれが好きになれません。


この言葉の由来だと思われる「マタイの福音書」の言葉『求めよ、さらば与えられん』と比べると、あまりにも狭い世界観に閉じ込められた言葉だからです。

そして、その狭い世界観に同調してしまう今の日本社会の空気を、もちろん自分もそこに生きている人間として受け止めつつも、哀しく感じます。


なぜ「狭い世界観」なのか?を説明するのは無粋です。

原文と並べてみれば、その深みの違いは一目瞭然です。



---
「求めよ、さらば与えられん」
---
(聖書) 

---
「強請るな、勝ち取れ、さすれば与えられん!」
---
(エウレカセブン)


 

上記の「求めよ~」だけでは、もとの言葉の奥行きを解釈しきれないので、原文を掲載しておきます。

---
求めつづけなさい。そうすれば与えられます。

探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。

たたきつづけなさい。そうすれば開かれます。
---
(マタイの福音書7章)

 

「強請るな、勝ち取れ、さすれば与えられん!」……という強い言葉を打ち出せたのなら、それと対になるような……またはそれを出発点として、もう少し違った世界との接し方を、もう一つ『答え』として用意しても良かったのではないか?と思います。

そうであれば、その言葉こそが受け手の記憶に残るような作品であれば、ぼくは手放しにエウレカセブンが好きだったと思います。

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ひとの人生に、まったく同じ瞬間は二度訪れることはありません。

感じ方も、欲しい感動のカタチも、好みも、衝動も、その瞬間瞬間に変化していきます。

それでも、心の成長の節目節目ごとに、そのとき抱えたキズや闇の種類にハモるようにして、心に深く長く突き刺さる作品というのが存在します。

その作品というのは、その後の人生を過ごす中で次の節目に差し掛かり、心の在り方がおおきく変化する時まで、あるものは『心の糧』として、あるものは『壁』として、そのひとの脳裏に燦然と在り続けます。


いまのぼくにとってのそれは間違いなく『G戦場ヘヴンズドア』で、日本橋ヨヲコ先生ご本人と言ってもいいかも知れません。

これほど、ぼくという存在を容赦なく殴りつけてくる作品は後にも先にも無いかも知れません。
それほど強烈に、今のぼくの「何か」と激突し、同時に強烈に共感させられる作品です。


その理由はたくさんありすぎて書ききれません。あとネタバレにもなるので。



この作品を越えたい。

そう強く思います。

作品の出来がどうとかいう次元の問題ではなく。自己評価でこの作品を越えてみたい。


生きザマを刻み付けたい。

休息地でキズを癒すのではなく、戦場でキズの上にキズを重ねてでも……。

そういう衝動に突き動かされます。

同じ人生一本道を歩むなら、例えどれほど愚かな道だと言われても、じぶんが歩きたい道を歩いていかなければ満たされないモノというものが、確かにあるようで。

「1か、100か?」と問われれば、ぼくは迷わず「1」を選んでしまうのだろう。


ぼくらは、今という時代をどう生きればいいのだろう?

そんな疑問にぶちあたることがよくある。


家族や地域社会といった身近な場所で、それこそ空気を吸うようにして行われてきた当たり前の儀式。

伝承、継承と呼ばれる、叡智や文化や何がしかの想いや命の受け渡し。

近代までは当たり前であった世代間のバトンタッチのシステムが、現代社会ではほとんど崩壊してしまった。
それを変容・変化と呼ぶこともあるが、ムラ社会を脱しシステム化・市場化の推し進められた現代社会が「伝承し損ねつつあるもの」が、そんな言葉で済ましてしまえるほど小さなものではないということが、昨今やっと具体的な言葉として叫ばれるようになってきた。

日々そんなことを想って生きている中で、伊藤剛さんが執筆・編集している『GENERATION TIMES(ジェネレーションタイムズ)』というタブロイド誌と出逢った。


「新しい時代のカタチを考えるジャーナル・タブロイド誌」と銘打たれたこの情報誌は、ぼくに「答え」を与えてくれるものではなくて、ぼくに「同じ想いを抱き行動しているひとがいる」という事実を伝えてくれた。

もちろん、世の中には行動しているひとがたくさんいることは頭ではわかっている。
でも、そういうひとに不意に遭遇すると、今のじぶんの姿にハッと気づかされることもまた事実で。

ぼくは、伊藤さんに感謝している。

 

感謝の意を込めて、ここにぼくが感じ入った言葉を少しだけ抜き出して紹介してみます。

●「世界」はひとつ。では、ない。

●「世界なんて見えないよ」

     /vol.06「I am the World」より

●明日があるさ、と先送りにした明日は、結局やって来なかった。

●今日は死ぬのにとてもよい日だ。

     /vol.07「Today is my life.」より


これだけでは何のことだかよくわからない気もしますが、そのときぼくが考えていたこととシンクロしてどきっとした言葉たちです。

「ジェネレーションタイムズ」は毎号テーマに沿って全体がとてもきちんと構成されていて、美しい創りをしているなと思います。

 

ぼくのまわりには、ぼくの立っている場所だからこそ出逢えるものが様々ある。

それらとどう接し、どうしたいのか。

ぼくなりの生き方と表現を考えてみよう。 うん。


 花沢健吾さんの漫画『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を最近でた7巻までを読了しましたが、そのあまりの生々しさに魅了されてしまいました。

 絵柄から若干読者を選びますが、それを補ってあまりあるパワーの溢れまくる怪作です。

 

 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』の魅力は、ひとえに主人公・田西敏行の『超ド級のヘタレ具合』です。

 ケンカではぼろくそに負け、逃げだし、土下座し、言いたいことも言えず、ションベンちびり、およそ人より優れた部分が一つも見当たらない……その小市民っぷりが、これでもかというくらい描かれる漫画です。
 ここまでカッコ悪い描写のオンパレードで描かれる主人公というのも、漫画史上稀なのではないかと思います。

 それくらい情けなく、ヘボく、弱いのですが、そのヘタレっぷりこそがこの漫画の最大の魅力で、強烈に共感してしまう麻薬のような部分です。
 これほどまで、(今の30代くらいの男性に特に?)共感させてしまう主人公は、本当に稀だと思います。
 それくらい真に迫っていて、ぼくら一人一人が持っているようなフツーの心と身体の弱さと葛藤を、余すことなく主人公・田西は持っています。ぼくは自分自身のことのように田西の心境に没入してしまいました。


 だからこそ、この「徹底的に」(チンピラと目が合ったらさりげなく逸らすような、常識的サラリーマン的行動をとる)凡人な田西が、とっさの英雄的行動に移るところは、まさに鳥肌モノです。

 とはいっても田西の英雄的行動はよく失敗するのですが、それが最高に良いのです。

 行動がかっこよく成功するのが漫画的ヒーローです。
 でも、田西の行動は成功しない。

 これが、この漫画の最大のポイントだろうと思います。


 普段は英雄的行動を妄想するだけの凡人なぼくら(田西)が、不意の極限状態に追い詰められ、ついに『男』を見せるのですが、「結果」は伴わないワケです。
 だって凡人ですからね。
 突然ケンカに強くなったりはしません。

 でも。だからこそ。
 『弱くても、行動する田西』の「勇気」がひときわ際立って輝きを放つのです。

 

 もう一点触れておきたいのは、この田西の「凡人の持つ勇気」が際立つ名作を支えているのは、作者の力量です。

 描画のタッチや勢い、画面構成、物語構成、表現力、キャラクター造形など、どの点をとってもセンスがよく丁寧に作りこまれています。
 漫画で「(生の)人間の平凡な仕草」を描くのは、とても難しいことですが、それをとてもよく表現しています。
 この漫画の土台を形成する「平凡な日常」が生々しいもの(それこそ自分と変わらない一人の人間の人生)として読者に伝わってくるからこそ、突如訪れる「非日常」に心動かされます。


 「ヒーローを夢見た普通のぼくら」と、そのロマンが凝縮されたような逸品だなぁと思います。
 絵柄に抵抗のない方はぜひぜひ手にとって読んでみてください。

 


つい先日、新海誠監督の新作アニメ『秒速5センチメートル』を見ました。
二話の途中まで見たあたりで、あまりの気持ち悪さにゾゾゾっとした寒気を覚えてしまいました。

これまでの新海さんの作品にも同様の感触を感じてはいたのですが、この作品ではその気持ち悪さがドキリとするほど強く浮き彫りになっていたので、強い嫌悪感を感じるとともに、とても驚きました。

ですので、今回はぼくが新海誠さんの作品に感じる、この「寒気」の正体について書いてみたいと思います。

 

ぼくが気持ち悪いと思ったものを一言で表すと、それは強烈な【乖離感】です。

現実と、登場人物の心の在り方の、乖離。

マンガ的生物描写と、リアルな静物描写の、剥離感。

映像の奥行きに比して、極端に平坦な人間描写。


新海さんの持ち味は、多くの声が証明しているように【静】の表現力です。
風景描写の中にキャラクターの心情を溶け込ませるような、うっとりとした映像表現が、ぼくも魅力だと思います。

ですが、その裏返しとして新海さんの弱点は【動】の表現だといえるかと思います。

生きた人間の表現。

これまでもそうでしたが、これだけ作品を重ねても磨かれてこないということは、この点がどうも、そもそも描けないようです。

描けないというよりは、描きたいものではない為に、目に映っていないというべきでしょうか。


今作では【静】の描写が精密で技術的にも以前よりぐっとレベルが上がっていたが為に、【動】の表現の未熟さ・ぎこちなさがもの凄く目に付いてしまい、結果として、それが「著しい落差」として映りました。

「情景描写(静)」の綿密さが凄ければ凄いほど、「生物描写(動・心の躍動)」の薄っぺらさと雑さが、際立ってしまう。
それが、ぼくの感じたギャップ。気持ち悪さの正体だろうと思います。

写真を使った風景のリアルさに比べて、生物(人間)や海や雲の表現動作があまりにもマンガ的な為に、このギャップは生まれています。

少しキツい言い方になりますが、静と動のこの著しい落差は「イビツ」だと感じました。

これも厳しい言葉になりますが、このイビツさはこの作品単体のものでなく、新海さん自身の世界の捉え方や視点が、無意識的かつダイレクトに表出している部分であり、作品の制作内容や技術などでなく、企画コンセプトや制作体制など(つまり作品の外側)から来る問題だと感じました。

姿勢の問題といってもいいです。

 

ずいぶん前に見た『ほしのこえ』の時代から同じような「偏り(※決して悪い意味ではなく、長所短所のある偏りをもった個性という意味です)」を持っていましたので、それ自体に特別驚いたわけではありません。

それが今回、長所(静の描写)が際立った分だけ、それ以上に短所である「動の未熟さ」が目に余るようになっていたので、このまま静の表現だけを極めていき、人間のもっとナマな表現は切り捨ててしまうのだろうか? すると、このイビツさがどんどん肥大していくのではないだろうか?……と不安を覚えたのです。


先ほども言ったとおり、これは「姿勢(作品の外側)」の問題で、新海さん本人はおそらくこの「イビツ」さを感じることはできません。
ぼくがぼく自身の「イビツさ」に気づくことができないのと同じように、これは、まわりの人間が「それはイビツだよ」と指摘することで初めて本人の感覚が経験的に磨かれる類のものだからです。

だから、新海さんが新海さん自身の感覚だけを指針にして作品創りをつづけているうちは、「静の映像表現だけが巧みな秀作」の域をいつまでも出られないだろうと思います。

 

知人ともたまにそういった話題が出ますが、新海さんは映像クリエイターとしてはとても稀な才能を持っていますが、ドラマ作りに関しては、ある一定のコンセプト以上のものを打ち出せる方ではないようです(今は少なくとも)。

その限界が今回の「イビツさ」にも影響しています。


ここから抜け出るには、一度、原作やシナリオをドラマ作りのプロに譲って、(絵コンテ~CG編集など)映像パートだけを受け持つアニメーターとしての仕事を経験してみるのが良いだろうと思います。

じぶんより深い人間考察のできる、プロのドラマ作りの眼や世界観を、スタッフとして体感することで、「じぶんに表現できないもの」の豊かさ・大きさに目をむけると、大きな収穫が得られるのではないか? そういう考えです。

自身の感覚だけに頼らず、もっと大きな「器」の中で生きることでそれを吸収する。そういった姿勢で、一度制作に臨むと、世界がまた違った広がりを見せるだろうと思うのです。

これが、作品ではなく、企画そのもののコンセプト(どのような目的・意図で創作に取り組むのか)の問題だと言った点です。


それと同時に気になるのが、制作体制のことです。
阿吽の呼吸で共に戦える仲間の存在はかけがえのないもので、不可欠なものです。
ですが、『ほしのこえ』時代から『秒速5センチメートル』までを通して見てみると、新海さん自身の抱えた(ドラマ作りの面から見れば致命的な)この「イビツな偏り」が、まったく補正できていません。

これは本人に帰するところもありますが、どちらかというと周囲にそれを指摘できる人間がいないということを示しているのだろうと思います。

これはぼくの想像ですが、プロのドラマ作りができる人間、その眼を持った人間がそばにいないのでしょう。
作品から伺える(ドラマ作りの未熟さに対する)無自覚さがそれを感じさせます。

これが、制作体制について感じることです。


長くなりましたが、こういった事情などがあり、今作のこの痛烈な【乖離感】に繋がったのだろうとぼくなりに考察してみました。

一話の表現など見ると、今でもため息をつきたくなるシーンがあり、新海さんの映像センスの非凡さを感じるほどに、人間描写の稚拙さと、ドラマ作りの弱さ(狭さ)を感じずにはいられません。
(※この弱さ・狭さとは、センチメンタルでモラトリアムなドラマ作り・心象的ムード作りにはとても秀でているが、それ以外……そこから一歩でも外に出た、それより先に広がる深く広大な世界やあまた渦巻く生身の人間の感情や生き様を表現することができない……という意味です)

これはスキルの話ではなく、人間観の話ですので、やはり一度じぶんよりも大きな「器」の中で生きてみるのが、一つの契機になるだろうと思うのです。


(※)ぼくが説明したかった「感触」を、別な言葉でもっとわかりやすく解説してくれてます。ぜひこちらもどうぞ↓
天のさだめを誰が知る!?


いま、とても胸が熱く高鳴っています。
打ち震えています。


押井守監督の2008年最新作『スカイ・クロラ(The Sky Crawlers)』の公式サイトを見た瞬間に、ゾクリとしたものを感じました。

そして、押井さんのメッセージ。


公式サイトを見たのは数日前ですが、いま見ても胸がどきどきします。

それほど、驚愕と感動を感じています。

なぜか?

正直に言って押井さんがこのような作品を手がけると思いもしていなかったから……、ぼくがいま、この時期……時代に打つべきと思っていた作品を、ひとつの理想の形で打ち出してきたからです。

(普段の動向をチェックしていないので)押井さんがこのような作品を手がけるほどに、その人生観を変化させていたことも知りませんでしたし、誰かが出してくるとは思っていましたが、それが押井さんだとは思っていなかったので、衝撃が倍増したわけです。


ぼくは、スカイ・クロラの原作を知りません。
これから読もうと思います。
だから、作品内容はまったく知りませんが、題材と切り口、テーマとメッセージ、今という時代性をそろえて見ただけで、この作品がどのような完成形を持つのかイメージできます。

だから、震えが止まりませんし、この作品発表後の押井さんがどのように歩んでいかれるのか楽しみです。


だめですね。

ぼくのこの胸中の期待感や武者震いを、うまく言葉にできません。

 

公式サイト掲載のインタビューの中で、一番共感し、表現が押井さんらしいなと思ったのは、この一言です。

<不幸になることさえ恐れなければ、あるいは不幸になる事を覚悟すれば、さらに積極的に言って自分自身が不幸になるという権利を行使する意志があるならば、恐らく人生というものは自分にとって情熱の対象になるのではないか>

「不幸」という言葉は、ぼくならもう少し違う言葉で表現しますが、そこが押井さんらしいのかなと感じました。

これほど今に対して的確で、現実的かつポジティヴで、力強く熱い言葉は、そう巡り逢えないものです。


このメッセージがより多くのひとの心を抉り、衝動に変わることを願って。
来年が楽しみです。


シルヴィ・ギエムがまた日本に来る。

それだけで、心がときめきます。

 

ぼくも『最後のボレロ』を見てバレエに魅了された人間のひとりです。

ですが、シルヴィ・ギエムのダンスの美しさを、ぼくは言葉でうまく説明することができません。

無謀を承知で、あえて言葉にしてみると。
クラシックバレエの持つ厳格なる形式と美……その『型』を超えた次元に到達し、その先のじぶんの次元を泳いでいる彼女のダンスと、そこに生み出される『別世界』にただただ浸っていたい。
そう思わされます。

観ていると、全身の感覚ごとぐいっと惹きつけられ、彼女の世界に強制的に放り込まれるような強烈な『場』が生まれます。
心が虜になる、というのはこういうのを言うんでしょうね。

とにかく、心が、魂が、ゆされぶられます。

どの世界でも、その道を本当に極めた『匠』の技とはそういう凄みがありますよね。


ベジャールの『春祭』にも激しく感動したのですが、知れば知るほどクラシックバレエの世界にハマっていってしまいます。


芸術には、〃触れ時〃というものがありますので、必ずあなたのハートを捕らえるかどうかをわかりませんが、一度バレエに触れてみたいと思う方で、びびっと来る方は、ぜひ今年冬の「シルヴィ・ギエム・オン・ステージ2007(全国ツアー)」をご覧ください。


いまのぼくがもう一度ギエムに逢える。そのことが楽しみでなりません。

いまのぼくの目に、ギエムの姿はどう映るのか。

いまのぼくの心に、ギエムのダンスはどう響くのか。

互いにどのように成長し、彼女はどう変わっているだろうか。

考えるだけでわくわくしてしまいます。


2回は、観たいなぁ。


この二年ほどの間に、ぼくの人生の中では極めて貴重な体験を三度しました。

ある作品に触れた瞬間に号泣する……という体験です。


1度目は、アニメ映画『時をかける少女』。 

2度目は、いつだったか、槇原敬之の『僕が一番欲しかったもの』を聴いたとき。

3度目は、漫画『G戦場ヘヴンズドア』(日本橋ヨヲコ)を読んだときです。

 

とにかく、とめどなく涙が溢れてくるんですね。

それは普通に感動的な物語に触れたから、といった生半可なレベルの感動ではなくて、ぼくが心の奥底で(場合によっては自覚すらしていなかったくらい奥底で)求めていたものを、唐突に与えられた(出逢った)瞬間なんです。

ものすごいピンポイントで、ぼくの心の乾きを満たしてくれる想いがそこにはありました。

『ああ、これが共感の真髄だ』とぼくはそのときに実感しました。

 

それまでのぼくは「共感」という言葉の意味を、頭で理解し、心の比較的浅い部分でのみ感じており、もっと奥底の魂とでも呼ぶような深層レベルではわかっていなかったのです。

これまでに深層レベルでの感動がなかったかというと、そうではありませんが、「じぶんの心が欲しているモノをきちんと認識・自覚した」のは昨今になってからでした。

それを知る大きな手がかりになったが、上記の作品です。

「共感」の意味を「実感レベル」で理解できたのは、これらの作品のおかげです。

だから、ぼくの作品づくりはこれまでとまったく違ったものになります。

〃描きたいものの深度〃がぼくのなかで変質し、明確なビジョンが生まれたからです。

 

中でも『G戦場ヘヴンズドア』はごく最近。
つい先日、最終話までを読み終えたところです。

前回触れましたが、日本橋ヨヲコさんの作品は、ぼくの中ではスペシャルな存在です。

スペシャルというのは、他の作品とは同じレベルではないということで、どういうことかというと、日本橋ヨヲコさんの作品は「勿体なくて読めない」のです。

きちんと、一話一話を心ぜんぶで味わいながら、その意味を解釈し、消化しながら読みたい。

だから、少女ファイトも2巻までソッコーで買ったけど、実はまだ全話読んでないのです。

「二話連続で読んでしまう」のが勿体な過ぎる。



〃明らかにそれに触れることで、じぶんのなかの何かが覚醒する〃


そうわかっているからこそ、何でもない時に読むなんて勿体ないことができないのです。

心がまさに欲したその瞬間に(じぶんへの最高のご褒美として)読みたい。

それくらいぼくにとって特別な存在なのです。

買ったのに、読みたいのに、〃勿体なくて〃読めない。……こんな気持ちは、生まれて初めてです。

 

じぶんの人生観を変えるほどの作品と出逢えるというのは、とにかく幸せなことです。

いろんな人間がいて、いろんな想いや生き方があるから、人それぞれに欲するものも異なって、それゆえにいろんな作品が世に出回っている。

そんな中で、『G戦場ヘヴンズドア』との出逢いはぼくにとってスペシャルなものであり、ぼくも誰かにとってのスペシャルを世に送り出そう。

そういうビジョンを持つきっかけになりました。

 

日本橋ヨヲコさんの作品は、「生きること」と真っ向勝負しているような作品です。

その姿勢が好きですし、たくさんのことを教わりました。


『へえ。お前は一生そこで眠ってるのかい?』

枕元に立つ妄想の中の日本橋ヨヲコが、暗闇の中で妖しく微笑んだ。みれば、ぼくの布団の周囲は完全に炎上し、すでに逃げ場は無くなっていた。
振り返ったぼくの眼に、頭上から見下ろされた相手の眼差しが蔑みのそれと感じられたのは、気のせいではない。それはぼくの心が生み出したものだからだ。

 


それはまさしく『奇襲』だった。いや、『挑戦状』と言うべきだろうか。

深夜。
馴れぬ肉体労働が二日続き、五体は極度の疲労に悲鳴をあげ、あまりの頭痛に彷徨うようにして帰宅途中に買ったポカリで喉の乾きを紛らせ、葛根湯を呑み伏せっていたぼくの手元には、先日実姉に借りた『G戦場ヘヴンズドア』2冊が置かれていたのです。
そう、まるで無辜の住人たちを突如襲う無慈悲なる地雷の如く。

そしてぼくはまんまと地雷を踏んだのです。

 

まっすぐに生きる。

強く生きる。

激しく生きる。

思うままに生きる。


どのように形容しても構わないし、どのように形容しても足りない。
どれが正解とかでなく。

ただただ、ひとの生き様を鮮烈にかつダイナミックに、そして熱く丁寧に描きだす。

そんな漫画家に出逢いました。


日本橋ヨヲコさんです。

 

『G戦場ヘヴンズドア』をむさぼるように読み、居ても立ってもいられず病床を押して『少女ファイト』を買いに走りました。
肉体は充分な休息を欲しているのに、心が燃え滾っていて眠れないといった状態で、這うようにして読み続けました。

日本橋ヨヲコさんの作品は、ある種の状態にある人間の心の深い部分に火をつけてくれるのです。つけてくれるというよりは、まさしく放火して去っていくといったほうが相応しいかもしれません。

ある種の状態にある人間というのは、たとえば『心の覚醒を望む人間』やその途上にある人間などです。


『あそこへ往きたい!』『こう生きたい!』と叫ぶ心の声と、今まさに生きている人生の歩み方の「ズレ」や「距離」の問題を心のなかで解決し切れてない方や、「まだじぶんの心が求める生き方」に気づいてない方が、これらの作品に触れると、一種の火傷をするかもしれません。

 

ともかく日本橋ヨヲコさんの作品は、『心の叫び』を呼び覚まし、結果的に現実に目を向けさせてくれるのです。
厳しくも楽しいこの世界の生き方を……その生き様を魅せてくれます。
そして、この残酷なるひとは皮肉たっぷりに言うのです。

「見ろよ。この青い空、白い雲。そして楽しい学校生活。……どれもこれも君の野望をゆっくりと爽やかに打ち砕いてくれることだろう」(「G戦場ヘヴンズドア」1巻より)

この豊かな大世界は、ぼくが野望などを抱かなくても悠然と包みこみ幸せを与えてくれる。そして。

「だれも生き急げなんて言ってくれない」(仝)

どっかーん!
ここまでド直球で言われると気持ちイイものです。

火がつきます。


かくして、ぼくの脳内妄想・日本橋ヨヲコは嘲笑する魂の放火魔さながらに、病床のぼくの心に火をつけてさっさと去っていくのです。

そこまで言われれば、もう熱が何度あろうと這い上がってパソコンに向かうしかないじゃないですか!

「このままじゃ心が燃えて死んでしまう(意味不明)! ……こ、こうしちゃいられない!!!!」

 

一番心に突き刺さったのは『少女ファイト』1巻の帯にもなったこの名セリフ。

「生き方が雑だな」

脳内猛然と痺れました。

はい。雑です。(笑)


こういうクリエイタが現れると本当に勇気づけられます。
ぼくがこれから世に送り出そうと思っている作品群が、決して間違いではない、と確信できるからです。

数年後、小説を出した暁には、日本橋ヨヲコさんに帯を書いてもらえるようなものに仕上げたいものです。

『G戦場ヘヴンズドア』、『少女ファイト』ともに、もし仮にそんなものがあったとしたら、漫画版・人生の教科書(猛然と生きたいひと専攻科目:『魂の火のつけ方Ⅰ』)に推薦したい。そう思います。


ずっと気になってた周防正行監督の「それでもボクはやってない」の上映が終わるときいて、急いで見てきました。

無意識的であれ気になっていたのには理由があって、やはり、今のぼくにとっては「見るべき作品」でした。


二時間半という時間に長いなぁと思いながら席に着いたのですが、気がつけば終わってしまい、短くすら感じました。
それほど作中ドラマに惹き込まれました。

この作品に惹き込まれるかどうかの一つのポイントは、「世の不条理」について、いまもなお葛藤しているか、すでに自分の中での葛藤を終えクリアしているか、だと思います。
だから、すでに「この問題」を周知の現実として理解し、自然に嗅ぎわけられている方は、それほど関心を惹かないのかもしれません。

 

この作品は裁判にまつわる「不条理な現実」を描いた映画ですが、これは人間がつくる「(社会)システムの限界」を描いたもので、それを鮮烈に描く題材として「痴漢冤罪」はとても明瞭なものでした。

人間が全能でない以上、完全なシステムというものは存在し得ません。
また裁判に当たっても、「真犯人を必ず有罪にし、冤罪は必ず無罪にする」のは残念ながら不可能です。


この問題に「答え」はありません。

大切なのは、ここです。


この映画の中で、監督が注視し熟考しながら綿密な計算とバランスで描こうとしている悲劇。
この悲劇が抱えている根本的な問題点は、「事実」と「真実」の落差です。

客観と主観と言い換えてもいいと思います。

やや大雑把に違いを書くと……
「事実」とは、「起こった出来事そのもの」。
「真実」とは、「当事者が感じたもの」。
……といった風になると思います。

「痴漢冤罪」を例にとって説明すると、
●被告人の手が偶然、不可抗力で女性のお尻を撫でるような感じでぶつかった →事実起こったこと
●被告人は、偶然ぶつかっただけなので自覚がない →被告人の真実
●被害者は、故意にお尻を触られたと感じた →被害者の真実
……という風です。

これらは、どこか矛盾しているようで、矛盾していません。

被告人と被害者がそれぞれに「そう感じた」という事実は、本物なわけです。
そして、手がお尻に当たったというのも事実です。


「被告人の真実(触ってない)」と「被害者の真実(触られた)」は、ともに当人の体感なので第三者には確認しようがありませんし、「第三者が知りうる情報(事実)」は(主観を除いた)客観的に収拾できた情報(の一部)に過ぎませんので、そもそも異なっていて当たり前です。
ですから、第三者の判断する事実(=判決)が、当事者の真実とイコールになることは、原理的にありません。

痴漢冤罪だけでなく、ひとが主観で生きる存在である以上、この「事実と真実の問題」から逃れることはできません。
往々にしてここから不条理なトラブルが起こり、ひとはそれに翻弄されてしまいます。


ですが、この「事実と真実の差異」があるからこそ、ドラマ(物語)もまた生まれてきます。

というよりも、「人に心がある」からこそ、主観もあり客観もあるわけなので、これは人間が抱えるジレンマというべきものなのだと思います。


「不条理」はイヤなことですが、それは「人間はひとりひとり異なる」ということの裏返しでもあり、皮肉なことですが、この問題に「唯一無二の正答」がないことが、人の心の多様性の証でもあります。

こう考えると裁判官という仕事は、この解決し得ない人の心の問題を引き受ける役割を担っているのですから、大変な負担のかかる仕事だと思います。

 

ぼくが関心を持ったのは、生きる上でも作品を手がける上でも「事実」と「真実」の違いや、それらがもたらす問題の意味を、しっかりと知っておかなければ『物事の本質』を見落とすという点です。

この「不条理」は、ぼくらが引き受けるべき、答えのない問いです。

現実を生きる以上、何らかの結果や判断をしていくしかありません。だからこそ、そこから生まれてくる問題をぼくらは、抱える、という仕方で、向き合うべきだと思うのです。

だって、この不条理を否定したら、結果として、誰かの想いや感じ方(=心)を否定することになるからです。


だからぼくは、この問題……制度や人間の限界から生まれてしまう悲しみ……を前向きに受け止めたい。

 

被害者も被告人も裁判官も、否定しない。

複雑で答えのない問題に、一面から見た答えを出して終わらせない。

それがこの作品が一番伝えたかったこと……現実の処し方……なのだろうと思います。

そしてその先にあるのは、人の心の肯定なのだと、ぼくは感じました。



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上野雅成
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ゲームデザイナー&シナリオライター
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