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自分が感銘を受けたあらゆるジャンルの作品を完全な主観で備忘録的に書きとめていきます。 ■このブログの続きとして、【2109年を生きるゲーム職人への手紙。】に移転しました。 ■ときどきネタバレを含むのでご注意のほどを。
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 花沢健吾さんの漫画『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を最近でた7巻までを読了しましたが、そのあまりの生々しさに魅了されてしまいました。

 絵柄から若干読者を選びますが、それを補ってあまりあるパワーの溢れまくる怪作です。

 

 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』の魅力は、ひとえに主人公・田西敏行の『超ド級のヘタレ具合』です。

 ケンカではぼろくそに負け、逃げだし、土下座し、言いたいことも言えず、ションベンちびり、およそ人より優れた部分が一つも見当たらない……その小市民っぷりが、これでもかというくらい描かれる漫画です。
 ここまでカッコ悪い描写のオンパレードで描かれる主人公というのも、漫画史上稀なのではないかと思います。

 それくらい情けなく、ヘボく、弱いのですが、そのヘタレっぷりこそがこの漫画の最大の魅力で、強烈に共感してしまう麻薬のような部分です。
 これほどまで、(今の30代くらいの男性に特に?)共感させてしまう主人公は、本当に稀だと思います。
 それくらい真に迫っていて、ぼくら一人一人が持っているようなフツーの心と身体の弱さと葛藤を、余すことなく主人公・田西は持っています。ぼくは自分自身のことのように田西の心境に没入してしまいました。


 だからこそ、この「徹底的に」(チンピラと目が合ったらさりげなく逸らすような、常識的サラリーマン的行動をとる)凡人な田西が、とっさの英雄的行動に移るところは、まさに鳥肌モノです。

 とはいっても田西の英雄的行動はよく失敗するのですが、それが最高に良いのです。

 行動がかっこよく成功するのが漫画的ヒーローです。
 でも、田西の行動は成功しない。

 これが、この漫画の最大のポイントだろうと思います。


 普段は英雄的行動を妄想するだけの凡人なぼくら(田西)が、不意の極限状態に追い詰められ、ついに『男』を見せるのですが、「結果」は伴わないワケです。
 だって凡人ですからね。
 突然ケンカに強くなったりはしません。

 でも。だからこそ。
 『弱くても、行動する田西』の「勇気」がひときわ際立って輝きを放つのです。

 

 もう一点触れておきたいのは、この田西の「凡人の持つ勇気」が際立つ名作を支えているのは、作者の力量です。

 描画のタッチや勢い、画面構成、物語構成、表現力、キャラクター造形など、どの点をとってもセンスがよく丁寧に作りこまれています。
 漫画で「(生の)人間の平凡な仕草」を描くのは、とても難しいことですが、それをとてもよく表現しています。
 この漫画の土台を形成する「平凡な日常」が生々しいもの(それこそ自分と変わらない一人の人間の人生)として読者に伝わってくるからこそ、突如訪れる「非日常」に心動かされます。


 「ヒーローを夢見た普通のぼくら」と、そのロマンが凝縮されたような逸品だなぁと思います。
 絵柄に抵抗のない方はぜひぜひ手にとって読んでみてください。

 

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いま、とても胸が熱く高鳴っています。
打ち震えています。


押井守監督の2008年最新作『スカイ・クロラ(The Sky Crawlers)』の公式サイトを見た瞬間に、ゾクリとしたものを感じました。

そして、押井さんのメッセージ。


公式サイトを見たのは数日前ですが、いま見ても胸がどきどきします。

それほど、驚愕と感動を感じています。

なぜか?

正直に言って押井さんがこのような作品を手がけると思いもしていなかったから……、ぼくがいま、この時期……時代に打つべきと思っていた作品を、ひとつの理想の形で打ち出してきたからです。

(普段の動向をチェックしていないので)押井さんがこのような作品を手がけるほどに、その人生観を変化させていたことも知りませんでしたし、誰かが出してくるとは思っていましたが、それが押井さんだとは思っていなかったので、衝撃が倍増したわけです。


ぼくは、スカイ・クロラの原作を知りません。
これから読もうと思います。
だから、作品内容はまったく知りませんが、題材と切り口、テーマとメッセージ、今という時代性をそろえて見ただけで、この作品がどのような完成形を持つのかイメージできます。

だから、震えが止まりませんし、この作品発表後の押井さんがどのように歩んでいかれるのか楽しみです。


だめですね。

ぼくのこの胸中の期待感や武者震いを、うまく言葉にできません。

 

公式サイト掲載のインタビューの中で、一番共感し、表現が押井さんらしいなと思ったのは、この一言です。

<不幸になることさえ恐れなければ、あるいは不幸になる事を覚悟すれば、さらに積極的に言って自分自身が不幸になるという権利を行使する意志があるならば、恐らく人生というものは自分にとって情熱の対象になるのではないか>

「不幸」という言葉は、ぼくならもう少し違う言葉で表現しますが、そこが押井さんらしいのかなと感じました。

これほど今に対して的確で、現実的かつポジティヴで、力強く熱い言葉は、そう巡り逢えないものです。


このメッセージがより多くのひとの心を抉り、衝動に変わることを願って。
来年が楽しみです。


ずっと気になってた周防正行監督の「それでもボクはやってない」の上映が終わるときいて、急いで見てきました。

無意識的であれ気になっていたのには理由があって、やはり、今のぼくにとっては「見るべき作品」でした。


二時間半という時間に長いなぁと思いながら席に着いたのですが、気がつけば終わってしまい、短くすら感じました。
それほど作中ドラマに惹き込まれました。

この作品に惹き込まれるかどうかの一つのポイントは、「世の不条理」について、いまもなお葛藤しているか、すでに自分の中での葛藤を終えクリアしているか、だと思います。
だから、すでに「この問題」を周知の現実として理解し、自然に嗅ぎわけられている方は、それほど関心を惹かないのかもしれません。

 

この作品は裁判にまつわる「不条理な現実」を描いた映画ですが、これは人間がつくる「(社会)システムの限界」を描いたもので、それを鮮烈に描く題材として「痴漢冤罪」はとても明瞭なものでした。

人間が全能でない以上、完全なシステムというものは存在し得ません。
また裁判に当たっても、「真犯人を必ず有罪にし、冤罪は必ず無罪にする」のは残念ながら不可能です。


この問題に「答え」はありません。

大切なのは、ここです。


この映画の中で、監督が注視し熟考しながら綿密な計算とバランスで描こうとしている悲劇。
この悲劇が抱えている根本的な問題点は、「事実」と「真実」の落差です。

客観と主観と言い換えてもいいと思います。

やや大雑把に違いを書くと……
「事実」とは、「起こった出来事そのもの」。
「真実」とは、「当事者が感じたもの」。
……といった風になると思います。

「痴漢冤罪」を例にとって説明すると、
●被告人の手が偶然、不可抗力で女性のお尻を撫でるような感じでぶつかった →事実起こったこと
●被告人は、偶然ぶつかっただけなので自覚がない →被告人の真実
●被害者は、故意にお尻を触られたと感じた →被害者の真実
……という風です。

これらは、どこか矛盾しているようで、矛盾していません。

被告人と被害者がそれぞれに「そう感じた」という事実は、本物なわけです。
そして、手がお尻に当たったというのも事実です。


「被告人の真実(触ってない)」と「被害者の真実(触られた)」は、ともに当人の体感なので第三者には確認しようがありませんし、「第三者が知りうる情報(事実)」は(主観を除いた)客観的に収拾できた情報(の一部)に過ぎませんので、そもそも異なっていて当たり前です。
ですから、第三者の判断する事実(=判決)が、当事者の真実とイコールになることは、原理的にありません。

痴漢冤罪だけでなく、ひとが主観で生きる存在である以上、この「事実と真実の問題」から逃れることはできません。
往々にしてここから不条理なトラブルが起こり、ひとはそれに翻弄されてしまいます。


ですが、この「事実と真実の差異」があるからこそ、ドラマ(物語)もまた生まれてきます。

というよりも、「人に心がある」からこそ、主観もあり客観もあるわけなので、これは人間が抱えるジレンマというべきものなのだと思います。


「不条理」はイヤなことですが、それは「人間はひとりひとり異なる」ということの裏返しでもあり、皮肉なことですが、この問題に「唯一無二の正答」がないことが、人の心の多様性の証でもあります。

こう考えると裁判官という仕事は、この解決し得ない人の心の問題を引き受ける役割を担っているのですから、大変な負担のかかる仕事だと思います。

 

ぼくが関心を持ったのは、生きる上でも作品を手がける上でも「事実」と「真実」の違いや、それらがもたらす問題の意味を、しっかりと知っておかなければ『物事の本質』を見落とすという点です。

この「不条理」は、ぼくらが引き受けるべき、答えのない問いです。

現実を生きる以上、何らかの結果や判断をしていくしかありません。だからこそ、そこから生まれてくる問題をぼくらは、抱える、という仕方で、向き合うべきだと思うのです。

だって、この不条理を否定したら、結果として、誰かの想いや感じ方(=心)を否定することになるからです。


だからぼくは、この問題……制度や人間の限界から生まれてしまう悲しみ……を前向きに受け止めたい。

 

被害者も被告人も裁判官も、否定しない。

複雑で答えのない問題に、一面から見た答えを出して終わらせない。

それがこの作品が一番伝えたかったこと……現実の処し方……なのだろうと思います。

そしてその先にあるのは、人の心の肯定なのだと、ぼくは感じました。


二〇話まで『妖奇士(あやかしあやし)』を見ました。

この作品のテーマは、今の日本に生きているぼくら(若い世代)が抱える『心の病』に触れるものだと思っています。

「自分探しの幻想」や「青い鳥症候群」に代表されるような、焦がれるようなどうしようもない内的衝動についてです。


どう生きていくか。
作中で様々なキャラクターが生き方を模索して七転八倒しています。

そのなかで、まだ主人公が持つ特異な能力『漢神(あやがみ)』の存在する意味について触れてこないところを見ると、クライマックスで一気に明かすようです。

(※)『漢神(あやがみ)』とは、人や物から、その名前の原義(真の意味)を取り出し、武器や力に変える特殊能力のことです。

 

『漢神』は『漢神』でしかないという点は、ひとまず語られると思うのですが、ぼくの個人的な思いとしては、「それではちょっと踏み込みが足りないのでは?」と思ってしまいます。


『漢神(あやがみ)』とは、いわば『自分の外側にある、じぶんを映す鏡(つながりを示すもの)』の代表的な設定です。
これ以外にも、作中では「名前を背負うこととは?」「士(さむらい)であることとは?」といった問いかけが各エピソードごとになされてきました。

この作品が、これまで描かれてきた多くの「自分探し」をテーマにした作品と同じなら、クライマックスに『漢神』の存在意義……と、そこから導き出される答え……が解明され、主人公・往壓(ゆきあつ)が自分の道を見つけ、これからも歩んでいく、といったもので構いません。

ですが、ここまで面白い題材(設定)を用意したのだから、今のぼくらが抱えている『自己肯定感の喪失』といったタイムリーな深いテーマに踏み込んで欲しいところです。

これを描くことを念頭におくと、『漢神』の意味の解明はどちらかというと出発点になります。
「自分とは何者か」の答えが、ひとまず出てみないことには、次の問いとして出てくる「自分はなぜ今まで何者にもなれなかったのか」という考察に踏み込めません。
悩みが解決した後、悩んでいたときのじぶんを振り返ることで、ようやく事態を全体視できるからです。渦中にいるあいだは溺れないようにするのに必死で、その渦がどういう経緯から生まれてきたのかなど、渦の意味についてなど俯瞰することはできません。


より今の世代の感覚や問題にフィットさせるなら、この「なぜ」を解明し、主人公・往壓が克服していく道のりを描くのがいいだろうと思います。

「もしかしてそこに切り込んでくれるかな?」という期待を当初から持っていたのですが、2クール構成ならそうではなさそうです。
3~4クール構成で、後半にさらに深くテーマを掘り下げて、往壓の人生を追ってくれるととても面白いものになるだと思うのですが。


もちろん、これはぼくの解釈と期待の話なので、制作者の意図やメッセージはもう少し違うところにあると思います。

それでも

「なぜ、彼(彼女)は逃げざるを得なかったか」

そこをしっかり魅せて欲しいと思ったのです。
そうすることで、「あぁ、だからぼくらは逃げてしまったのか」と、作品を見ているぼくらも気づき、こころの一段深いところで共感することができると思うのです。


世界中が平和になるってどういうこと(状態)だろう?


この作品のなかで、受け手に投げかけられる疑問がこれです。

みんなが幸せになれればいいな。

ぼんやりとそう願ったりすることがありますが、世界から戦争や貧富の差はなくならない。大切であるはずの、ひとや動植物の生命も日々摘みとられていく。
じゃあ、「世界中が平和になる」という理想とは、いったいどういう状態(どのレベル)で実現可能なのだろうか?

おそらく谷口悟朗監督の命題のひとつでもあり、物語のキーパーソンである『カギ爪の男』は、そのことを考えつづけたキャラクターです。


話はそれますが、同じ谷口監督の「スクライド」も観ている方は、ガン×ソードに同じ匂いを感じたのではないでしょうか。ぼくの感触では、スクライドで消化し切れなかった部分を、別の形で結実させた作品だと思います。

混沌の側を主人公とした、秩序との対立。
二作品に共通する構造です。

ぼくはナチュラルに秩序側から物事をみる人間なので、谷口監督の逆からの視点はとても面白く楽しませてもらっていますし、メッセージ性バリバリの明確な対立構造と、それぞれの信念に基づくキャラクターたちの命懸けのバトルも大好きです。

ガン×ソードの魅力は、リズミカルで心地よい作品テンポやポリシィの明確なキャラなどもありますが、なんといっても「善の理屈を悪の屁理屈が押しのけていく」ところです。

その思想や考え方・生き方だけをみれば、主人公であるヴァンよりも、敵として登場する者たちの方が、人として正しかったり、まっとうであるにも関わらず、彼らは衝動のままに突き進むヴァンの前に敗れていきます。

そこに、この作品の巧妙さと、たどり着くメッセージがあります。

想いに囚われること、思想に囚われることによって、ひとが見失ってしまうものがあります。
そのごくごく根本的なものに気づかせるために、スクライドもガン×ソードも「混沌」を代表する主人公が「秩序」をぶちかましていくのです。



いわゆる「正義」ではなく、「義」を貫く男の姿。それがガン×ソードの美しさです。

似て非なるもの。(言葉の意味の捉え方に幅があるので、微妙な解釈の話になりますが)、正義と義、この意識の差はものすごく大切です。

爽快に、鋭く、ひとの生き様を描く谷口監督の作品が大好きです。
ヒーローものの作品を長年手がけてきた谷口監督だからこそたどり着いた「義」の世界。ビリビリと身体の芯に響きます。


(※)そしてこれらの息吹は、「コードギアス」の根底にもあるのですが、この作品は企画自体の色合い(制作スタイル)がずいぶん異なるために、前二作品のような谷口監督の長所が発揮された切れ味のよい作品にはなりそうにありません。残念です。


いま一番気に入っているTVアニメが、「妖奇士」です。

この作品の主人公・往壓(ゆきあつ)が39歳(高年齢)でなければ、ぼくはこれほど注目し、そして深い感銘をうけなかったと思います。


往壓の悲劇は、少年時代に『異界』という非現実に心奪われてしまったことではじまります。

それ以来、彼は『異界(夢の魔力)』に囚われ、『現実(空虚な毎日)』から逸脱してしまい、気がつけばいい大人になってしまっていました。

この生き遅れた感のある男が、ある事件をきっかけに『異界』へ逃げず、『異界』から逃げることもやめ、そして『現実』に踏みとどまる決意をすることで、この物語は幕をあけます。
主人公のこの立ち位置がとても好きです。


一~二話のこれらのエピソードが、強烈にこの作品を方向付けていると思います。

職も未来もない歳をくった主人公(実は成熟した大人でもあるのですが)
行き場のない浮民(流民のような者たちのこと)
ひとを魅了する『異界』
異界から出現する『妖夷(ようい)』
そして、ひとや物の本質をとりだす異界の力『漢神(あやがみ)』

天保という時代を土台に、これらの設定を加えることで、夢と現実の両立や、精神的な自立にすっかり不器用になってしまった今の(日本の若い)『世代観』を、これほどみごとに描き出している、設定の妙にぐっとハートを鷲づかみされました。

妖奇士がストレートに描いているのは、まぎれもなく『いまを生きるぼくら』の姿です。

 

受け手の感性などによって異なる多様な視点からその作品をとらえたときに、いくつもの解釈で筋が通るようにできている作品は「できが良い」と思います。
解釈が一つしかできないのではなく、見方や想像力によって、どんどん解釈の幅や奥行きがふくらんでいく作品が理想的だと。

たとえば、ぼくは妖奇士を『現代日本の若い世代の抱える焦燥感(ぬるま湯に浸かる自分との葛藤)』といった切り口でとらえましたが、もっと別な解釈もできると思います。
そういうふうに受け手がある切り口から見た際に、設定やシナリオの「意味づけの毛並み」がきちんと揃っていることが出来の良し悪しだろうと思うのです。


そうやって、ひとつの視点を持って妖奇士を眺めてみると、

ひとの心に住まう幻想……『ここじゃないどこかを求めるこころ』……は裁けない

それに人一倍惹かれながらも、妖夷と戦う『奇士(あやし)』たちの存在

ひとを殺すのでなく、そのひとが作り出してしまう妖夷をこそ倒す。それが奇士の役目なのだということ

ひとはひとりひとり異なる。みな異人なのだという言葉

ひとはこの世で生き、生きるために食べるということ

……そういったメッセージたちが、明確かつ力強く作品のテーマを浮き彫りにしていきます。
作品の根底に敷き詰められた強いメッセージ性がステキなだけに、ここから先、この作品が生きるか死ぬかは、どれだけ初志貫徹でまっすぐに深く深く「初志」に踏み込めるかだなと思っています。


(※)二期(十三話)になってOPが変わりました。残念な予想が的中してしまい、二期のOPにはまったく力がありませんでした。ややここ数話の展開に遊びが増えてきたのは、制作スタッフが作品に馴染んできたからだと解釈し、ヘンな方向のテコ入れが入ったとは考えたくないものです。ノリや萌えに走らずに初期の作風を守ってそのまま伸ばしてくれれば、この作品はとても良いものに仕上がりそうですし。
と思っていたら、この新OPです。このOPは残念ながら「一期のメッセージ性」の延長線上にはなく、ここまでの「流れ」をブツリと切ってしまうものでした。物語もそうならないことを祈りたいものです。好きな作品なだけに、すごく嫌な予感が膨らみます。


がつんと金槌で頭を殴られたような衝撃を受けた歌があります。

槇原敬之の『店じまい』です。

アルバムのなかで一番地味なタイトルだったこの歌が伝えようとしていることが、ぼくにとって一番衝撃的で、思わぬ伏兵、完全な不意討ちでした。
おそらく今の日本人が一番持つべきメンタリティだろうと思います。


「加担しない」という決断によって、自己責任をまっとうする心です。

じぶんは無関係だと思わない心。

この歌が問いかけてくることはとてもシンプルなことです。

身近な例でいえば、赤信号をみんなで渡るか、渡らないか、というような問いです。


『店じまい』は痛烈な仕掛けでもって、自分のいまの幸せ(日常生活)と、異国の戦争の不幸とが直接的な接点を持ち、それに気づかされた男の懊悩を描いています。

その切り口の鋭さに、本当にどきっとしました。

 

この歌は痛切に問いかけてきます。

「じぶんひとりがやめたくらいで、世の中は何も変わらないし……」

ぼくらひとりひとりがそう想いつづけているかぎり、社会はいつまで経っても何も変わらないという、至極当然の事実を告げてくれます。

 

『いま、この歌を聴いたあなたが、明日からもおなじように(社会の一員である自分を無意識のうちに棚上げして)漫然と社会を憂えて生きてくだけの人間だったら、いつまでたっても未来はよくならないぞ』

そう言われている気がして、胸が苦しくなりました。

この歌は、ぼくのなかにあった「何もできないじぶん」という幻想を打ち砕いてくれました。「ぼくの立場じゃなにもできないから」という言い訳をじぶんに対してし続けてきた自分にきづいたのです。

そして、ぼくにできることがたくさんあることに気づきました。

それが『店じまい』です。


無自覚なじぶんの行ないに気づき、「やめる」こと。

知らないうちにじぶんは、異国の戦場の悲劇に(否定しないというやり方でもって)加担・肯定しているのではないか? ぼくらひとりひとりが、そういう問いをじぶんに対して立てないうちは、異国の戦争も終わらないのです。

無自覚・無関心であることがうまく利用されている例が、世の中にはたくさんあります。

これは、遠い国の話だけでなく、すべてのものごとに対するメンタリティの話です。


『楽園なんて、きっとどこにもありはしない。

世界の果てには、何も無いんだ。

どこまで歩いても、同じ道が続いてるだけ。

それなのに……


なぜこんなにも衝動に駆られるんだ。

 


誰かの声がする。

楽園を、目指せ。』

 

真っ白な雪景色のなか、点々とつづいていく狼の足跡。

どこまでも、どこまでも。
白い雪のなか。
やがて横たわる一匹の白い狼の姿が映り、彼はゆっくりと瞳を閉じてゆく。

その情景のなか、ぽつり、ぽつりと語られる心情(狼の言葉)。

一話の冒頭(アバンタイトル)が、この作品を体現していて好きです。

この部分が作品通して語ろうとしている命題をストレートに訴えかけてくるからです。悲哀に満ちた孤独と絶望の中、ひたすらに希望を求めてやまない衝動。


地上に『楽園』はあるのか。


楽園を求めて走りつづけた狼たちの行く末は、どうなるのか?
何と出逢い、何をみつけ、どういう結末を迎えるのか。

ただただ物語の結末を観たいが為に最終話まで見続けたのは、「楽園を求める」ことが当時のぼくの命題でもあったからです。

そして、この作品は後半の展開にややつまづきを見せながらも、きちんとひとつの答えを明示し貫徹してくれた作品なので、とても好きです。

結末を知ると、この作品がとても王道を走る作品だったのだとわかるのですが、世界設定など、わかるようでわからない良い具合のファンタジーだなぁと思います。


心に『火』をつけてくれる作品が好きです。

楽園の置き場所や自分の衝動との付き合い方をまだ決めきれず、ずっと彷徨い、狼たちのように走りつづけていたぼくにとって、WOLF'S RAINは一つのヒントをくれた感慨深い一作となりました。


『忘却の旋律』もしびれた作品のひとつです。

時代(社会)設定とメロスの戦士の位置づけ。「忘却の旋律」と呼ばれる少女の幻影が示唆するもの。

溢れんばかりのメッセージ性にどきっとしました。


トータルで見ると特に後半は遊びの部分がめだって、最終話までの展開の中で、テーマをなでる程度で深く掘り下げずに終わった作品なのが、ぼくとしては残念です。

序盤にあそこまでエスカレートさせたのだから、より深くより厳然と描いてみてほしかった。テーマについて話し合い、企画とシナリオを深めていく時間が足りなかったのかなと想像しますが、基本設定が良かっただけに悔やまれます。
(深めきれなかったという印象がありますが、最終回はきちんと締めたと思います)


創り手にとって作品は、こどものようなものです。

生み出すことも大変な作業ですが、それと同じくらい(場合によってはそれ以上に)重要なのが、きちんと育てることです。

最終回まで育てきること。

ただ続けるのでなく。真摯に向き合い続けること。

もう少し違う言い方をしてみると、『産んだ作品』というナイフを使って、何をする(何を描く)かが、育てる(=最終話までをどう創るか)ということです。
初速だけ良かった作品というのは、「作品」という武器と機会を用意したのに、創り手がその先に踏み込めなかった(踏み込まなかった)ということだと思います。


ぼく自身いろいろ作品を創ってきた経験上、それがいかに困難か理解しているので、それを成せなかった作品をだめだとは思いません。
それもたいせつな作品です。

そういった苦労に向き合い、最後まで作品の面倒をみようとすることで、自分自身が磨かれ育てられます。
結果はその副産物のようなもので、重要ではありません。現場での失敗から人間は学んで大きくなっていく生き物だからです。

そういったことを胸に秘めて、しっかりと作品と向き合いたいと思っています。



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