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自分が感銘を受けたあらゆるジャンルの作品を完全な主観で備忘録的に書きとめていきます。 ■このブログの続きとして、【2109年を生きるゲーム職人への手紙。】に移転しました。 ■ときどきネタバレを含むのでご注意のほどを。
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ひとの人生に、まったく同じ瞬間は二度訪れることはありません。

感じ方も、欲しい感動のカタチも、好みも、衝動も、その瞬間瞬間に変化していきます。

それでも、心の成長の節目節目ごとに、そのとき抱えたキズや闇の種類にハモるようにして、心に深く長く突き刺さる作品というのが存在します。

その作品というのは、その後の人生を過ごす中で次の節目に差し掛かり、心の在り方がおおきく変化する時まで、あるものは『心の糧』として、あるものは『壁』として、そのひとの脳裏に燦然と在り続けます。


いまのぼくにとってのそれは間違いなく『G戦場ヘヴンズドア』で、日本橋ヨヲコ先生ご本人と言ってもいいかも知れません。

これほど、ぼくという存在を容赦なく殴りつけてくる作品は後にも先にも無いかも知れません。
それほど強烈に、今のぼくの「何か」と激突し、同時に強烈に共感させられる作品です。


その理由はたくさんありすぎて書ききれません。あとネタバレにもなるので。



この作品を越えたい。

そう強く思います。

作品の出来がどうとかいう次元の問題ではなく。自己評価でこの作品を越えてみたい。


生きザマを刻み付けたい。

休息地でキズを癒すのではなく、戦場でキズの上にキズを重ねてでも……。

そういう衝動に突き動かされます。

同じ人生一本道を歩むなら、例えどれほど愚かな道だと言われても、じぶんが歩きたい道を歩いていかなければ満たされないモノというものが、確かにあるようで。

「1か、100か?」と問われれば、ぼくは迷わず「1」を選んでしまうのだろう。

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シルヴィ・ギエムがまた日本に来る。

それだけで、心がときめきます。

 

ぼくも『最後のボレロ』を見てバレエに魅了された人間のひとりです。

ですが、シルヴィ・ギエムのダンスの美しさを、ぼくは言葉でうまく説明することができません。

無謀を承知で、あえて言葉にしてみると。
クラシックバレエの持つ厳格なる形式と美……その『型』を超えた次元に到達し、その先のじぶんの次元を泳いでいる彼女のダンスと、そこに生み出される『別世界』にただただ浸っていたい。
そう思わされます。

観ていると、全身の感覚ごとぐいっと惹きつけられ、彼女の世界に強制的に放り込まれるような強烈な『場』が生まれます。
心が虜になる、というのはこういうのを言うんでしょうね。

とにかく、心が、魂が、ゆされぶられます。

どの世界でも、その道を本当に極めた『匠』の技とはそういう凄みがありますよね。


ベジャールの『春祭』にも激しく感動したのですが、知れば知るほどクラシックバレエの世界にハマっていってしまいます。


芸術には、〃触れ時〃というものがありますので、必ずあなたのハートを捕らえるかどうかをわかりませんが、一度バレエに触れてみたいと思う方で、びびっと来る方は、ぜひ今年冬の「シルヴィ・ギエム・オン・ステージ2007(全国ツアー)」をご覧ください。


いまのぼくがもう一度ギエムに逢える。そのことが楽しみでなりません。

いまのぼくの目に、ギエムの姿はどう映るのか。

いまのぼくの心に、ギエムのダンスはどう響くのか。

互いにどのように成長し、彼女はどう変わっているだろうか。

考えるだけでわくわくしてしまいます。


2回は、観たいなぁ。


この二年ほどの間に、ぼくの人生の中では極めて貴重な体験を三度しました。

ある作品に触れた瞬間に号泣する……という体験です。


1度目は、アニメ映画『時をかける少女』。 

2度目は、いつだったか、槇原敬之の『僕が一番欲しかったもの』を聴いたとき。

3度目は、漫画『G戦場ヘヴンズドア』(日本橋ヨヲコ)を読んだときです。

 

とにかく、とめどなく涙が溢れてくるんですね。

それは普通に感動的な物語に触れたから、といった生半可なレベルの感動ではなくて、ぼくが心の奥底で(場合によっては自覚すらしていなかったくらい奥底で)求めていたものを、唐突に与えられた(出逢った)瞬間なんです。

ものすごいピンポイントで、ぼくの心の乾きを満たしてくれる想いがそこにはありました。

『ああ、これが共感の真髄だ』とぼくはそのときに実感しました。

 

それまでのぼくは「共感」という言葉の意味を、頭で理解し、心の比較的浅い部分でのみ感じており、もっと奥底の魂とでも呼ぶような深層レベルではわかっていなかったのです。

これまでに深層レベルでの感動がなかったかというと、そうではありませんが、「じぶんの心が欲しているモノをきちんと認識・自覚した」のは昨今になってからでした。

それを知る大きな手がかりになったが、上記の作品です。

「共感」の意味を「実感レベル」で理解できたのは、これらの作品のおかげです。

だから、ぼくの作品づくりはこれまでとまったく違ったものになります。

〃描きたいものの深度〃がぼくのなかで変質し、明確なビジョンが生まれたからです。

 

中でも『G戦場ヘヴンズドア』はごく最近。
つい先日、最終話までを読み終えたところです。

前回触れましたが、日本橋ヨヲコさんの作品は、ぼくの中ではスペシャルな存在です。

スペシャルというのは、他の作品とは同じレベルではないということで、どういうことかというと、日本橋ヨヲコさんの作品は「勿体なくて読めない」のです。

きちんと、一話一話を心ぜんぶで味わいながら、その意味を解釈し、消化しながら読みたい。

だから、少女ファイトも2巻までソッコーで買ったけど、実はまだ全話読んでないのです。

「二話連続で読んでしまう」のが勿体な過ぎる。



〃明らかにそれに触れることで、じぶんのなかの何かが覚醒する〃


そうわかっているからこそ、何でもない時に読むなんて勿体ないことができないのです。

心がまさに欲したその瞬間に(じぶんへの最高のご褒美として)読みたい。

それくらいぼくにとって特別な存在なのです。

買ったのに、読みたいのに、〃勿体なくて〃読めない。……こんな気持ちは、生まれて初めてです。

 

じぶんの人生観を変えるほどの作品と出逢えるというのは、とにかく幸せなことです。

いろんな人間がいて、いろんな想いや生き方があるから、人それぞれに欲するものも異なって、それゆえにいろんな作品が世に出回っている。

そんな中で、『G戦場ヘヴンズドア』との出逢いはぼくにとってスペシャルなものであり、ぼくも誰かにとってのスペシャルを世に送り出そう。

そういうビジョンを持つきっかけになりました。

 

日本橋ヨヲコさんの作品は、「生きること」と真っ向勝負しているような作品です。

その姿勢が好きですし、たくさんのことを教わりました。


『へえ。お前は一生そこで眠ってるのかい?』

枕元に立つ妄想の中の日本橋ヨヲコが、暗闇の中で妖しく微笑んだ。みれば、ぼくの布団の周囲は完全に炎上し、すでに逃げ場は無くなっていた。
振り返ったぼくの眼に、頭上から見下ろされた相手の眼差しが蔑みのそれと感じられたのは、気のせいではない。それはぼくの心が生み出したものだからだ。

 


それはまさしく『奇襲』だった。いや、『挑戦状』と言うべきだろうか。

深夜。
馴れぬ肉体労働が二日続き、五体は極度の疲労に悲鳴をあげ、あまりの頭痛に彷徨うようにして帰宅途中に買ったポカリで喉の乾きを紛らせ、葛根湯を呑み伏せっていたぼくの手元には、先日実姉に借りた『G戦場ヘヴンズドア』2冊が置かれていたのです。
そう、まるで無辜の住人たちを突如襲う無慈悲なる地雷の如く。

そしてぼくはまんまと地雷を踏んだのです。

 

まっすぐに生きる。

強く生きる。

激しく生きる。

思うままに生きる。


どのように形容しても構わないし、どのように形容しても足りない。
どれが正解とかでなく。

ただただ、ひとの生き様を鮮烈にかつダイナミックに、そして熱く丁寧に描きだす。

そんな漫画家に出逢いました。


日本橋ヨヲコさんです。

 

『G戦場ヘヴンズドア』をむさぼるように読み、居ても立ってもいられず病床を押して『少女ファイト』を買いに走りました。
肉体は充分な休息を欲しているのに、心が燃え滾っていて眠れないといった状態で、這うようにして読み続けました。

日本橋ヨヲコさんの作品は、ある種の状態にある人間の心の深い部分に火をつけてくれるのです。つけてくれるというよりは、まさしく放火して去っていくといったほうが相応しいかもしれません。

ある種の状態にある人間というのは、たとえば『心の覚醒を望む人間』やその途上にある人間などです。


『あそこへ往きたい!』『こう生きたい!』と叫ぶ心の声と、今まさに生きている人生の歩み方の「ズレ」や「距離」の問題を心のなかで解決し切れてない方や、「まだじぶんの心が求める生き方」に気づいてない方が、これらの作品に触れると、一種の火傷をするかもしれません。

 

ともかく日本橋ヨヲコさんの作品は、『心の叫び』を呼び覚まし、結果的に現実に目を向けさせてくれるのです。
厳しくも楽しいこの世界の生き方を……その生き様を魅せてくれます。
そして、この残酷なるひとは皮肉たっぷりに言うのです。

「見ろよ。この青い空、白い雲。そして楽しい学校生活。……どれもこれも君の野望をゆっくりと爽やかに打ち砕いてくれることだろう」(「G戦場ヘヴンズドア」1巻より)

この豊かな大世界は、ぼくが野望などを抱かなくても悠然と包みこみ幸せを与えてくれる。そして。

「だれも生き急げなんて言ってくれない」(仝)

どっかーん!
ここまでド直球で言われると気持ちイイものです。

火がつきます。


かくして、ぼくの脳内妄想・日本橋ヨヲコは嘲笑する魂の放火魔さながらに、病床のぼくの心に火をつけてさっさと去っていくのです。

そこまで言われれば、もう熱が何度あろうと這い上がってパソコンに向かうしかないじゃないですか!

「このままじゃ心が燃えて死んでしまう(意味不明)! ……こ、こうしちゃいられない!!!!」

 

一番心に突き刺さったのは『少女ファイト』1巻の帯にもなったこの名セリフ。

「生き方が雑だな」

脳内猛然と痺れました。

はい。雑です。(笑)


こういうクリエイタが現れると本当に勇気づけられます。
ぼくがこれから世に送り出そうと思っている作品群が、決して間違いではない、と確信できるからです。

数年後、小説を出した暁には、日本橋ヨヲコさんに帯を書いてもらえるようなものに仕上げたいものです。

『G戦場ヘヴンズドア』、『少女ファイト』ともに、もし仮にそんなものがあったとしたら、漫画版・人生の教科書(猛然と生きたいひと専攻科目:『魂の火のつけ方Ⅰ』)に推薦したい。そう思います。


ひさしぶりに、魂を揺さぶられる人間と出逢いました。


『作品と会話する』とは、どういうことか?

『全霊を傾けた創作』とは、どれほどのものか?

集団創作の場で、いかに自己実現を果たすか?


ぼくが、これまでつまづいてきた様々な難題の答えを、すべて彼は持っており、45分という短い時間のなかでそれらを鮮烈に見せ付けてくれました。

現在のぼくからすれば遥か高みにいる人間ですが、同じクリエイタとしてこれほど理想に近い人間はおらず、心から「同じ高みに立ちたい」「追いつこう」と思えるクリエイタです。

 

出逢ったといっても、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で放映された指揮者・大野和士の番組を観ただけなのですが、そこに映された彼の生き様がぼくの胸を打ち抜きました。

彼は、まさに人生を賭けて作品を生み出す第一級のクリエイタです。わざわざ門外漢のぼくが言うまでもなく、世界的な評価がそれを証明しています。

ぼくは、音楽関連の制作技術と知識を持っていないので、これまで「オーケストラの指揮者とはすごい仕事だな」と漠然と感じているだけでした。
ですが、大野和士さんの姿をみたことで、一気に指揮者が「どれくらい高次の創作を行なっているのか」を具体的にイメージすることができました。


哲学や思想、創作への姿勢、まわりへの気配り、技術、知識など、さまざま点で優れている大野さんですが、それらすべての軸となっているのが、作品の実現に対して一切の妥協を許さない彼の『生き様』です。

「作品を解釈する」のではなく、「作品と会話する」。それは作品を別の角度から自分流にとらえるということではなく、まさに作品そのものを吸収し、自らが語るという行為です。作品を己の血肉にして、はじめてタクトを握る。
この徹底ぶり。

「公演日(〆切)にベストの作品を仕上げる」ために、どんな状況やトラブルが襲ってこようと、ひるまず自らが解決に挑む姿勢。
自分の作品に対するリスクは自分こそが負う。
負う必要がある立場か否か、といった次元の話でなく、生みの親としてその作品の実現のためであれば「すべて」を引き受ける覚悟が、彼にはあります。
この器の大きさ。

これほどの哲学とポリシィを貫きながら、同時に、何十人もの人間と十全にコミュニケーションをとり、彼らひとりひとりの力を発揮させるべく、彼らをリラックスさせ解放していく指揮者としての仕事ぶり。

これほど真摯に作品と深いレベルで向き合いながら、仲間との円滑なコミュニケーションと共同作業を行ない、そして〆切までに必ず作品を理想的なカタチに創り上げる構築能力と集中力。


約20年間、ただ一人、本場欧州の最前線で生き抜き、己を磨き、結果を出しつづけてきた彼の生き方(生き様)こそが、芸術的であり、作品はその副産物だとさえ思えます。
(もちろん生み出した作品が一級品だからこそ、認められるしすごいのですが)

 

ぼくには、結果として生まれてくる彼の作り出す音楽がどれほど秀逸なものなのかは、正直よくわかりません。
ですが、彼自身の生き様がすでに途方もない輝きを放っていることから、そこから生み出される作品がどれほどクオリティの高いものなのかは想像に難くありません。


多くを学んだ出逢いでしたが、その最たるものの一つが『研ぎ澄まされた良いクリエイタほど、〆切を重要視する』ということです。〆切とは、クリエイタが苦しみつづけると同時に愛しつづけてきた作品がこの世に生まれてくる『誕生の瞬間』ですもんね。
作品が生まれる瞬間。それを楽しみ祝福しよう。そう思いました。


何度か時かけを観た頃から、ぼくは「ぼくはなぜこの作品をもっともっと観たい衝動に駆られるのか?」という疑問と「気持ちの正体を知るため、納得いくまで観つづけてやる」という決意を抱いていました。

その想いを胸に多大な感動の海にたゆたっていたぼくは、ながい鑑賞期間を経て、最後の一回となった上映を見ながら、そのこたえを見つけました。

 

ぼくにとっての時かけは、壮大なモラトリアムの誘惑であり、「こどもであるじぶん」に浸る時間だったのです。

そしてぼくは「おとな」になる為に、心の器がいっぱいになって心が納得するまで「こどもの時間」を満喫する。その為に、ただひたすら時かけを浴びつづけていたのだと知りました。

エンターテイメントや芸能は、そもそも現実の労苦から心を解放し、楽しみ、夢をみ、人生を豊かにするものでもあるので、「浸ればいい」んですが、今のぼくの場合に限っては、事情がすこし異なりました。

ここで言う「こども」と「おとな」の違いを言葉にするなら、たぶん
〃無自覚に夢をみつづけるこどもでいたいじぶん〃(→こども)
〃夢をみながらもきちんと現実を歩いていくじぶん〃(→おとな)
という風になります。

ちょうど真琴が「自覚」し未来を選んだように、ぼくはぼくのもとめる夢(生き方)をきちんと「自覚」してこれからを生きていくんだ。
そういったことを自分のこころに刻む為の儀式。
こどもからおとなへの精神的な脱皮。

それが、時かけ月間の正体でした。

ということで、これからのぼくはじぶんの夢に対して責任を持ち、自覚的に生きるぞ、と決意したわけです。

 

この映画は「心の中のモラトリアム」に決着がついていないひとにとっては、おそらく絶大な威力(と中毒性)を持っている作品だと思います。

ぼくの場合はそうでした。

あまりに鮮烈で魅惑的な感動と夢の無限ループだったが為に、自覚と無自覚のあわいを彷徨っていたぼくはそれを逆手にとり、どっぷり無自覚の底に沈みきり荒療治とすることで、自分自身の課題をクリアしたのだと思います。
この作品と出逢った今のぼくが、そういう付き合い方を選んだ、ということです。

でも、自分のこころをぜんぶ預けきることができる作品など人生のなかでそう何回も出逢うことはできません。
そういった意味で、ぼくはとても恵まれていたように思います。時かけと出逢うことで、心の通過儀礼を果たすことができました。

だから、この作品はぼくにとって、特別な一作です。


(※)1/4の『時かけ』コメントを見た友人から「こら。もっと深いとこまで書け」とお叱りを受けたので、続編として「なぜぼくは観つづけたのか」を2回にわけて突っ込んで書きます。

今回は、映画との出逢いと鑑賞期間編。

 

時かけを見たぼくは、溢れんばかりの感動の雨に打たれ放心しました。
涙でスクリーンが見えなくなりひたすら嗚咽をこらえるというのは、あとで思うとなかなか嬉しい体験です。

あれほど狂ったように突き動かされ映画館に日参したのだから、人生至上無類の感動だったのだと思います。

 

タイムリープという能力を得たことで、ヒロインが有頂天になり無自覚かつ無邪気に遊びまくった結果、どんどん事件が広がっていくシナリオは、面白くかつ今の社会の病理をうまく透写しています。

お調子者で直感型。ちょっと(だいぶ?)おまぬけなヒロイン・真琴が愛らしくて仕方ない。

時空間を転がるようにして弄ばれていた真琴が、自分の本心に気づき、最後には自分の意思で時間(未来)を選び取る姿。

事件のきっかけとなった一枚の絵の存在。その意味。

場面展開の軽妙さと心地よさ。

最近減ってきた、トゲのない素直でまっすぐな作風。

奥華子さんの透明感のある歌声。

ひたむきな気持ちに突き動かされ、ただただ疾走する真琴のすがた。


そのどれもが、ぼくの胸に深く響き、強烈に惹かれました。
なぜこんなにも胸が熱くなって止まらないのだろう。そう考えた時、こんなにも感情をむき出しにして生きる人間の姿をあまり見かけることがなくなったからだと気づきました。
そして、ぼく自身こそがこんなにも素直に感情を発露させることがなくなっていたことに気づかされました。

じぶんが失っていたもの。
それが、モラトリアムの魔法をかけられてぼくのこころに降りかかってきたのです。

真琴の晴れやかな姿を見ながら、いろいろなものに囚われてしまい、こころをくすぶらせていたじぶんを感じ、同時に触発され閉じていた感情の扉のカギが吹っ飛び、バンバンひらきました。

この映画をみつづけた期間は、感情の洪水にとつぜん襲われてぼく自身が戸惑っていたのだと思います。


理論的に時かけを評価することはいろいろできますが、この映画がズバぬけてすごいところは、そういった巧みさを踏み台にして、〃むきだしの感情の渦〃で受け手を呑み込んでしまう理屈を越えたところにあります。


極限まで純化された、はだかの感情表現。

それが、時かけのすごいところであり、ぼくが愛してやまないところです。


あけましておめでとうございます。


昨年出逢った心の名作のうち、一番衝撃的なアニメ作品は『時をかける少女』でした。

ぶわっと泣いて、何度も何度も観ました。

なぜあの作品がよいかという構造的な話よりも、ぼくは『自分がなぜこんなにも感動してしまうのか』に注目して、それを分析するために、観たいという気持ちが押し寄せてくる間中、ただひたすら観つづけました。


一番ぼくが好きな部分は、真琴が未来にむけて具体的な夢(ビジョン)を持ったことです。

具体的というのは、人生設計やその方法論が確立されているかどうかではなく、『自分が進みたい方角』がしっかりわかっているという意味です。
心にコンパスを持つことで、ひとは迷っても迷っても、方向修正したりしながら進むことができます。


自分がこれからどんな道を辿っていくかは誰にだってわかりません。
たいせつなのは、どの道を歩くかではなく、どの方角に向かって進めば自分はほんとうに納得して生きられるか、これをわかってることだと思います。

この作品は、なんとなく日々を歩んでいた真琴が、とある事件をとおして一つの大きな夢を見つけ、進むべき未来を見つめてまっすぐに生きてゆこうと決意する様を描いています。

ぼくがステキだなと思ったのは、その純粋さ晴れやかさはもちろんのこと、真琴が未来に対して明確なビジョンを持ったことです。
物語の帰結として、日常の幸せを再確認するだけにとどまらず、事件が解決して恋が実ってハッピーエンドというのでもなく、未来をどう生きていくか(生きていきたいか)という気持ちを主人公が持ったことが嬉しかった。


厳密にいえば、心のコンパスはみつけるものではなく、出逢いや経験のすえに、心のなかに生まれてくるものですが、なかなかそれに本人が気づくことができないもので。

だから、(すでに心に芽生えているであろう)コンパスをみつける。

ぼくと『時をかける少女』の出逢いは、そのきっかけのひとつでした。


(※)そういったドラマの深さの点で見ても、過去のタイムリープ諸作品から一段深化させた作品なのだなぁと思いました。


一年の締めくくりとして、今年ぼくの心をいろんな意味で打ちのめし、育ててくれた中心的な存在たちに触れたいと思います。


2006年のぼくのビジョンは『心の育てなおし』でした。

今のままの自分ではこの先だめになってしまう。そう痛烈に感じたのは、2005年の話です。
だから、自分を内省する一年と決めて、2006年はすこし社会から距離をおき、様々な方面からのインプットを試みました。

○7つの習慣
○内田樹
○槇原敬之
○時をかける少女(アニメ)
○太陽と星と銀竜の詩篇ロマンシングブレス(P.A.S.)
○家族と友人

手助けとなったものは本当に無数にあるのですが、特にいまの自分をつくるにあたって重要な意味合いを持つ、これからも指針になるであろう存在たちです。
そのどれもがまだまだ未消化で、これからも本気で付き合っていこうと思っています。
話し出すとキリがないので、いくつかだけ触れてみます。

●槇原敬之の『僕が一番欲しかったもの』
音楽を聞いて、初めて泣きました。
アニメの感動を思い出してそのテーマ曲で涙をながすことはありましたし、音楽を聞いて心に深く残って眠れないようなこともありましたが、音楽を聞いて涙がぼたぼた落ちるといった経験は、これが初めてでした。

理由は歌詞のまんまです。
自分の心の奥底に眠っているなかば無意識の本心に、自分の外側から降ってきた言葉によって気づかされることが、これほどの感動になるのだと驚きました。
感動の根っこを知ったような気分です。

●内田樹の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』
何度読んでも含蓄のある本で、中でも「ワンランク下の自分に」の項が自分の客観視に役立ちました。
文中で<満たされない欲望に灼(や)かれる>と表現されたように、その時のぼくはまさに『<もう一ランク上の自分>でなければだめだ』という強迫観念に支配されていました。
自己肯定感の喪失というやつです。
<人間はわりと簡単に壊れる>という話もどきっとしましたが、この項で一番目が覚めるような想いをしたのは、可能性についての話です。

「私には無限の可能性があるのかないのか、どっちですか?」

これはぼくも知りたかった。それに対する内田先生の答えは次のようなものでした。

<自分の可能性を最大化するためには、自分の可能性には限界があるということを知っておく必要があります>

この一見逆説的な言葉は、ずうっともやもやしていた思いに答えを与えてくれました。
これを知って意識するようになってから、様々な局面でこの考えに通ずるものがあることに気づくようになりました。
限界を知るということは、自分に見えているものと見えていないもの(できること、できないこと)を知る、ということです。
つまり、自分の視点(視野)の外側にある世界、裏側にあるものなどを知って、初めて、最初の「自分の視点」がどういったものだったかを理解できる。そしてこんどは、自分のポジションが見えるようになるので、自分の活かし方に気づく……という風です。
視野(フレーム)の問題です。

可能性という言葉の捉え方もそれにつれ変化し、それによってどう生きるべきか(自分の可能性をどう伸ばしていきたいか)の指針が一つできました。

 

自分の心と向き合い生きるにあたって、とても多くの指針を今年見つけることができました。
心のかたちが変わるというのは、『すべての物事に対する感じ方』が変わるということです。この一年は、これからの生き方を基礎づける、本当に貴重な一年になりました。
ここに書いたものも書かなかったものも含め、どれもが、一生のかけがえのないぼくの財産です。

深い感謝を込めて。よいお年を。



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