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自分が感銘を受けたあらゆるジャンルの作品を完全な主観で備忘録的に書きとめていきます。 ■このブログの続きとして、【2109年を生きるゲーム職人への手紙。】に移転しました。 ■ときどきネタバレを含むのでご注意のほどを。
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放映当時いろいろと興味深い作品だと思って観ていました。

惹かれるのに、どうしても好きになれない作品というのがあって、『交響詩篇エウレカセブン』もそうでした。

 

好きになれない理由が2つあります。


●一つ目は、『未成熟な大人の視点から物語が描かれていること』です。

「レントンの純粋な少年の視点」だけに絞り込んで描かれていれば、とても伸びやかで気持ちの良い作品に仕上がっていたのだろうと思いますが、残念ながらぼくには「大人の視点のいやらしさ」が強く感じられて、観るのをやめてしまいました。

映画で言えばカメラを持っている人間のアクというか、作品のフレームワークの問題でしょうか。


絵やドラマの創りそのものは、往年の「少年の成長物語」として創られていて、気持ちの良い雰囲気が生まれています。

ここは、とても好きです。


でも、その物語が「大人のどこか達観した視点」を土台に仕込まれている所為で、台無しになっているように感じます。

「大人の都合(悲哀の押し付け)」が、作品そのものを嘲笑してしまっているのです。

これは監督(もしくは企画チーム)からにじみ出てくる『個性(毒という表現でもいいです)』ではないかな、と思っています。


コンセプトメイクした人間の持つ社会への負の感情と視点が、作品に底流しているが為に、エウレカセブンのテーマが結果として毒に彩られたものになってしまったように感じられるのです。

(※「なってしまった」と書きましたが、そうコンセプトしたのかも知れません)


「未熟な大人の視点」だと最初に書いたのは、少年の成長ドラマを軸にした物語を、大人のぐだぐだした諦観や内情で横から中途半端に茶化してみせるな、とかいうことでなく(それも少しだけ思いますが)、もっと根本的な部分で『世界への不信感』をそのまま「伸びやかな少年の物語」に持ち込まないで欲しい……という、思いからです。

それは、エウレカセブンを象徴するこの言葉にも如実に表れています。

 

●『強請るな、勝ち取れ、さすれば与えられん!』

作品のメッセージを示す言葉なのだと思います。

全編を精査したわけではないので実は本当のメッセージはもっと違うのかもしれませんが、少なくとも作品のカラーを決定づける痛烈なメッセージ性を帯びた言葉であることに変わりはありません。


この言葉、2005年当時の、昨今の日本の若者の「気分」をとらえた言葉だと思います。

このキーワードを導き出した、という意味では、エウレカセブンの企画チームは凄いな、と感心します。

ですが、ぼくはどうしてもこれが好きになれません。


この言葉の由来だと思われる「マタイの福音書」の言葉『求めよ、さらば与えられん』と比べると、あまりにも狭い世界観に閉じ込められた言葉だからです。

そして、その狭い世界観に同調してしまう今の日本社会の空気を、もちろん自分もそこに生きている人間として受け止めつつも、哀しく感じます。


なぜ「狭い世界観」なのか?を説明するのは無粋です。

原文と並べてみれば、その深みの違いは一目瞭然です。



---
「求めよ、さらば与えられん」
---
(聖書) 

---
「強請るな、勝ち取れ、さすれば与えられん!」
---
(エウレカセブン)


 

上記の「求めよ~」だけでは、もとの言葉の奥行きを解釈しきれないので、原文を掲載しておきます。

---
求めつづけなさい。そうすれば与えられます。

探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。

たたきつづけなさい。そうすれば開かれます。
---
(マタイの福音書7章)

 

「強請るな、勝ち取れ、さすれば与えられん!」……という強い言葉を打ち出せたのなら、それと対になるような……またはそれを出発点として、もう少し違った世界との接し方を、もう一つ『答え』として用意しても良かったのではないか?と思います。

そうであれば、その言葉こそが受け手の記憶に残るような作品であれば、ぼくは手放しにエウレカセブンが好きだったと思います。

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コメント
無題
交響詩篇エウレカセブンという作品に関して、私はこう思います
伸びやかな少年も、いずれは大人になります

ガンダム世代的な言い方をすれば
かつて、機動戦士ガンダムを見て、少年アムロに感情移入していた自分も
気がつけば、連邦軍の官僚達の世代になっている訳ですよね(笑)※わかりにくかったらごめんなさい

エウレカセブンという物語の根底には
常に家族というものがあります
特に序盤のレントンの物語の部分では…

家族、特に父親との関係性に視点があてられています

早くに父親を亡くし、父親的機能が不在の家庭で育ったレントン
現実を知らずに育ったかれが、家を飛び出すとこから物語は始まります

子供、特に男の子は、親から離れ、新たに自分自身の家庭を築き上げ自分が親になるには…
自分自身の親を客観視できるようにならなければいけない、すなわちそれが自立なのでしょう

それは単に父親越えるといのではなく
それまで親という絶対的な存在であった父親を
自分と同じ一人の人間なんだと理解し、共存してゆけるというものです

エウレカセブンにおいて描かれる大人というのは
そういった父親の象徴なのでしょう
ホランドも、決して成熟した大人ではありませんし、私も人の親にはなりましたが、決して自分が子供の頃思い描いたような、「出来た大人、出来た父親」になれているとは思いません
※子供といってもまだ赤ん坊ですが

それでも人は前に進んでゆかなければならないのです

レントンもそういった父親の存在と向かいあうことで
本当の意味で自分自身を確立してゆき
最後にはエウレカと新しい家庭を築くところまで至ります
また最終話付近で、失踪していた父親と再会したシーンで、しっかり自分の意見を言えたのも、レントンがそういう過程を経て自立した証拠だと思います

無宗教の価値観しかもちえない私たち現代日本人が、宗教っぽい言葉を安易にアニメ等に持ち込むのは、あまり関心できません(※特にエヴァンゲリオン等)
それは、本来の宗教用語の意味を理解せず使ってしまう可能性が高いからです

ただしこの作品の中の大人の視点を、達観とか、ぐだぐだ、とか、諦念とか、毒と決めつけてしまうのは若干安易かと思います
エウレカセブンに関しては、子供の親からの自立というものを描くにあたってのあえての演出だと思われます

近年のアニメといものを見ていて
子供らしさとか、可愛さ、カッコよさを描くものは多くても
本来アニメを見るべき子供が向かい合うべき、家庭や親との関係性を発展的に描いたアニメは少ないように思います

そういう意味で私はエウレカセブンというアニメはとても意義のある内容だったと感じます
【2011/01/02 01:28】 NAME[佐久野伴樹] WEBLINK[] EDIT[]


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