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自分が感銘を受けたあらゆるジャンルの作品を完全な主観で備忘録的に書きとめていきます。 ■このブログの続きとして、【2109年を生きるゲーム職人への手紙。】に移転しました。 ■ときどきネタバレを含むのでご注意のほどを。
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『レッドブック ワルツの雨』(著:RE/幻冬舎)を読みました。

こういう試みがぼくも大好きだからです。

 

(※以下に、本の仕組みのことを少し書きます。できるだけネタバレしないよう気をつけますが、「どういった雰囲気か」はわかってしまいます。未読の方はご注意ください)

(※落ち着いて読む時間がなかったので見落としているものがあるかもしれません。時間ができたら読み返して加筆・変更するかもしれませんが初見ということで)

 

読んでみた感想は「残念」の一言でした。

ぼくが期待していたような作品とはすこし違いました。
よくできた作品だと思いますが、もっとすごい仕掛けを想像していたという感じでしょうか。

感じたことを書きます。


●企画意図の観点から

「残念」の理由は、「一度目に読んだときのドラマ」と「二度目に読んだときのドラマ」の『読者の視点』が〃著しくは変化しなかった〃点です。

きちんと、メタ視点を用い、ドラマにもう一重の意味を重ねていて、サプライズも用意されていましたが、〃わざわざ鉛筆でこすってまで二度読ませる〃ほどの【大きな変化】とは感じませんでした。

一度目のクライマックス~ラストシーンで描かれる「真相」と「発見(驚き)」の内容と比べると、二度目に用意されていた「発見」はわりと予測の範囲内だったため、「ポーナスエピソード」のような付随的な印象でした。


繰り返しますが、〃二度読ませることを意図した小説〃なのだから、一度目のクライマックスよりも大きな感動や驚きが用意されていなければ、読者はより深い感動を得ることはできません。
〃もう一度読み直すことで、物語の意味をより深く理解できる〃といった程度では、二度目を読ませる仕掛けを売りにした企画としては弱いです。

ぼくが期待していたものは、
「まったく異なる感動(または、二度目に一段ぐんと深い感動)が用意されている」
「読者の視点が180度反転し、読み進めていく感触ががらりと変化する」
「一度目とは真逆の真相が明らかになり、構造の意味そのものが反転する」
などといったものです。

そこまでの変化はありませんでした。


「そこまで著しい感触の変化がなければだめなのか?」と言われれば、別にそうでなくてもよいと思いますが、【二度読ませる物語】として創られたものが、二度目に、一度目より大きな手応えを用意できていないのは残念だと感じました。
(※読者によっては、二度目のエンディングにより大きな手応えと深い意味を感じる方もいると思います。実際、そこまで読んで初めて、全構成の意味と、ラストメッセージが理解できます)

 

この企画(本)は、「鉛筆でこすって二度(三度)読ませる」ことをコンセプトとしている以上、二度目、三度目に、より強烈なインパクトがなければ、「二度読ませる意味」が希薄になってしまいます。

実際、二度目で得られる感動や発見は、別の手法でも(もちろん手触りは異なりますが)代替可能な発見や感動だと思います。


作品全体のつくりとしては、二度読ませることを前提にきちんとサプライズを用意して面白くまとめています。

ですが、ぼくは「ああ、これは鉛筆をこする手法じゃないと味わえない、造れない仕掛けだ。う~んさすが!」と思わせて欲しかったのですが、そこまで全体構成の狙いが絞り込まれた作品ではなかった点が「残念」と思ったところです。

第二弾があれば、ぜひそういったレベルに押し上げたものを期待したいと思いました。応援しています、飯野さん、清涼院流水さん。

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二〇話まで『妖奇士(あやかしあやし)』を見ました。

この作品のテーマは、今の日本に生きているぼくら(若い世代)が抱える『心の病』に触れるものだと思っています。

「自分探しの幻想」や「青い鳥症候群」に代表されるような、焦がれるようなどうしようもない内的衝動についてです。


どう生きていくか。
作中で様々なキャラクターが生き方を模索して七転八倒しています。

そのなかで、まだ主人公が持つ特異な能力『漢神(あやがみ)』の存在する意味について触れてこないところを見ると、クライマックスで一気に明かすようです。

(※)『漢神(あやがみ)』とは、人や物から、その名前の原義(真の意味)を取り出し、武器や力に変える特殊能力のことです。

 

『漢神』は『漢神』でしかないという点は、ひとまず語られると思うのですが、ぼくの個人的な思いとしては、「それではちょっと踏み込みが足りないのでは?」と思ってしまいます。


『漢神(あやがみ)』とは、いわば『自分の外側にある、じぶんを映す鏡(つながりを示すもの)』の代表的な設定です。
これ以外にも、作中では「名前を背負うこととは?」「士(さむらい)であることとは?」といった問いかけが各エピソードごとになされてきました。

この作品が、これまで描かれてきた多くの「自分探し」をテーマにした作品と同じなら、クライマックスに『漢神』の存在意義……と、そこから導き出される答え……が解明され、主人公・往壓(ゆきあつ)が自分の道を見つけ、これからも歩んでいく、といったもので構いません。

ですが、ここまで面白い題材(設定)を用意したのだから、今のぼくらが抱えている『自己肯定感の喪失』といったタイムリーな深いテーマに踏み込んで欲しいところです。

これを描くことを念頭におくと、『漢神』の意味の解明はどちらかというと出発点になります。
「自分とは何者か」の答えが、ひとまず出てみないことには、次の問いとして出てくる「自分はなぜ今まで何者にもなれなかったのか」という考察に踏み込めません。
悩みが解決した後、悩んでいたときのじぶんを振り返ることで、ようやく事態を全体視できるからです。渦中にいるあいだは溺れないようにするのに必死で、その渦がどういう経緯から生まれてきたのかなど、渦の意味についてなど俯瞰することはできません。


より今の世代の感覚や問題にフィットさせるなら、この「なぜ」を解明し、主人公・往壓が克服していく道のりを描くのがいいだろうと思います。

「もしかしてそこに切り込んでくれるかな?」という期待を当初から持っていたのですが、2クール構成ならそうではなさそうです。
3~4クール構成で、後半にさらに深くテーマを掘り下げて、往壓の人生を追ってくれるととても面白いものになるだと思うのですが。


もちろん、これはぼくの解釈と期待の話なので、制作者の意図やメッセージはもう少し違うところにあると思います。

それでも

「なぜ、彼(彼女)は逃げざるを得なかったか」

そこをしっかり魅せて欲しいと思ったのです。
そうすることで、「あぁ、だからぼくらは逃げてしまったのか」と、作品を見ているぼくらも気づき、こころの一段深いところで共感することができると思うのです。


今回は、喜びの叫び。


ウィザードリィの遺伝子を受け継ぐ者(魅せられた者)の一人として、このゲームは避けて通れない。
いやそれどころか、ずっと迷いに迷いきっかけをつかみあぐねていた『NintendoDS(Lite)』をついに購入してしまった。

そう、アトラスから発売されたRPG『世界樹の迷宮』をプレイする。

そのためである。


ウィザードリィシリーズの魅力の一つである「ダンジョンマップの手描き作業」であるが、『世界樹の迷宮』では、DSの二画面を利用して、二つ目のウインドウで常時マップ作成ができるようになっている。
待ちに待ったプレイ感触は筆舌に尽くし難い快感をともなっていた。

タッチペンでのマッピング作業もスムースで、とても心地よい。

う~ん、もうこれだけでうっとりしてしまうのは、ぼくがウィズ因子に冒されているからである。


手描きマッピングのこの快感・・・。

・・・。

う~ん、すてき・・・。

ちなみにゲームはまだはじめたばかりなのでどうこう言えないけれども、第一印象はかなり好感触です。
余計な演出や設定がなく、とても遊びやすいです。


何度でも書いてしまおう。

手描きマッピング。う~ん、すごく快感。
マッピング欲求(?)が満たされます。

(※)プレイ前からウィズ因子に感染していない方が、マッピング作業をどう受け止めるかはわかりませんけど、ハマってくれたら嬉しいですね。


ひさしぶりに、魂を揺さぶられる人間と出逢いました。


『作品と会話する』とは、どういうことか?

『全霊を傾けた創作』とは、どれほどのものか?

集団創作の場で、いかに自己実現を果たすか?


ぼくが、これまでつまづいてきた様々な難題の答えを、すべて彼は持っており、45分という短い時間のなかでそれらを鮮烈に見せ付けてくれました。

現在のぼくからすれば遥か高みにいる人間ですが、同じクリエイタとしてこれほど理想に近い人間はおらず、心から「同じ高みに立ちたい」「追いつこう」と思えるクリエイタです。

 

出逢ったといっても、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で放映された指揮者・大野和士の番組を観ただけなのですが、そこに映された彼の生き様がぼくの胸を打ち抜きました。

彼は、まさに人生を賭けて作品を生み出す第一級のクリエイタです。わざわざ門外漢のぼくが言うまでもなく、世界的な評価がそれを証明しています。

ぼくは、音楽関連の制作技術と知識を持っていないので、これまで「オーケストラの指揮者とはすごい仕事だな」と漠然と感じているだけでした。
ですが、大野和士さんの姿をみたことで、一気に指揮者が「どれくらい高次の創作を行なっているのか」を具体的にイメージすることができました。


哲学や思想、創作への姿勢、まわりへの気配り、技術、知識など、さまざま点で優れている大野さんですが、それらすべての軸となっているのが、作品の実現に対して一切の妥協を許さない彼の『生き様』です。

「作品を解釈する」のではなく、「作品と会話する」。それは作品を別の角度から自分流にとらえるということではなく、まさに作品そのものを吸収し、自らが語るという行為です。作品を己の血肉にして、はじめてタクトを握る。
この徹底ぶり。

「公演日(〆切)にベストの作品を仕上げる」ために、どんな状況やトラブルが襲ってこようと、ひるまず自らが解決に挑む姿勢。
自分の作品に対するリスクは自分こそが負う。
負う必要がある立場か否か、といった次元の話でなく、生みの親としてその作品の実現のためであれば「すべて」を引き受ける覚悟が、彼にはあります。
この器の大きさ。

これほどの哲学とポリシィを貫きながら、同時に、何十人もの人間と十全にコミュニケーションをとり、彼らひとりひとりの力を発揮させるべく、彼らをリラックスさせ解放していく指揮者としての仕事ぶり。

これほど真摯に作品と深いレベルで向き合いながら、仲間との円滑なコミュニケーションと共同作業を行ない、そして〆切までに必ず作品を理想的なカタチに創り上げる構築能力と集中力。


約20年間、ただ一人、本場欧州の最前線で生き抜き、己を磨き、結果を出しつづけてきた彼の生き方(生き様)こそが、芸術的であり、作品はその副産物だとさえ思えます。
(もちろん生み出した作品が一級品だからこそ、認められるしすごいのですが)

 

ぼくには、結果として生まれてくる彼の作り出す音楽がどれほど秀逸なものなのかは、正直よくわかりません。
ですが、彼自身の生き様がすでに途方もない輝きを放っていることから、そこから生み出される作品がどれほどクオリティの高いものなのかは想像に難くありません。


多くを学んだ出逢いでしたが、その最たるものの一つが『研ぎ澄まされた良いクリエイタほど、〆切を重要視する』ということです。〆切とは、クリエイタが苦しみつづけると同時に愛しつづけてきた作品がこの世に生まれてくる『誕生の瞬間』ですもんね。
作品が生まれる瞬間。それを楽しみ祝福しよう。そう思いました。


世界中が平和になるってどういうこと(状態)だろう?


この作品のなかで、受け手に投げかけられる疑問がこれです。

みんなが幸せになれればいいな。

ぼんやりとそう願ったりすることがありますが、世界から戦争や貧富の差はなくならない。大切であるはずの、ひとや動植物の生命も日々摘みとられていく。
じゃあ、「世界中が平和になる」という理想とは、いったいどういう状態(どのレベル)で実現可能なのだろうか?

おそらく谷口悟朗監督の命題のひとつでもあり、物語のキーパーソンである『カギ爪の男』は、そのことを考えつづけたキャラクターです。


話はそれますが、同じ谷口監督の「スクライド」も観ている方は、ガン×ソードに同じ匂いを感じたのではないでしょうか。ぼくの感触では、スクライドで消化し切れなかった部分を、別の形で結実させた作品だと思います。

混沌の側を主人公とした、秩序との対立。
二作品に共通する構造です。

ぼくはナチュラルに秩序側から物事をみる人間なので、谷口監督の逆からの視点はとても面白く楽しませてもらっていますし、メッセージ性バリバリの明確な対立構造と、それぞれの信念に基づくキャラクターたちの命懸けのバトルも大好きです。

ガン×ソードの魅力は、リズミカルで心地よい作品テンポやポリシィの明確なキャラなどもありますが、なんといっても「善の理屈を悪の屁理屈が押しのけていく」ところです。

その思想や考え方・生き方だけをみれば、主人公であるヴァンよりも、敵として登場する者たちの方が、人として正しかったり、まっとうであるにも関わらず、彼らは衝動のままに突き進むヴァンの前に敗れていきます。

そこに、この作品の巧妙さと、たどり着くメッセージがあります。

想いに囚われること、思想に囚われることによって、ひとが見失ってしまうものがあります。
そのごくごく根本的なものに気づかせるために、スクライドもガン×ソードも「混沌」を代表する主人公が「秩序」をぶちかましていくのです。



いわゆる「正義」ではなく、「義」を貫く男の姿。それがガン×ソードの美しさです。

似て非なるもの。(言葉の意味の捉え方に幅があるので、微妙な解釈の話になりますが)、正義と義、この意識の差はものすごく大切です。

爽快に、鋭く、ひとの生き様を描く谷口監督の作品が大好きです。
ヒーローものの作品を長年手がけてきた谷口監督だからこそたどり着いた「義」の世界。ビリビリと身体の芯に響きます。


(※)そしてこれらの息吹は、「コードギアス」の根底にもあるのですが、この作品は企画自体の色合い(制作スタイル)がずいぶん異なるために、前二作品のような谷口監督の長所が発揮された切れ味のよい作品にはなりそうにありません。残念です。


いま一番気に入っているTVアニメが、「妖奇士」です。

この作品の主人公・往壓(ゆきあつ)が39歳(高年齢)でなければ、ぼくはこれほど注目し、そして深い感銘をうけなかったと思います。


往壓の悲劇は、少年時代に『異界』という非現実に心奪われてしまったことではじまります。

それ以来、彼は『異界(夢の魔力)』に囚われ、『現実(空虚な毎日)』から逸脱してしまい、気がつけばいい大人になってしまっていました。

この生き遅れた感のある男が、ある事件をきっかけに『異界』へ逃げず、『異界』から逃げることもやめ、そして『現実』に踏みとどまる決意をすることで、この物語は幕をあけます。
主人公のこの立ち位置がとても好きです。


一~二話のこれらのエピソードが、強烈にこの作品を方向付けていると思います。

職も未来もない歳をくった主人公(実は成熟した大人でもあるのですが)
行き場のない浮民(流民のような者たちのこと)
ひとを魅了する『異界』
異界から出現する『妖夷(ようい)』
そして、ひとや物の本質をとりだす異界の力『漢神(あやがみ)』

天保という時代を土台に、これらの設定を加えることで、夢と現実の両立や、精神的な自立にすっかり不器用になってしまった今の(日本の若い)『世代観』を、これほどみごとに描き出している、設定の妙にぐっとハートを鷲づかみされました。

妖奇士がストレートに描いているのは、まぎれもなく『いまを生きるぼくら』の姿です。

 

受け手の感性などによって異なる多様な視点からその作品をとらえたときに、いくつもの解釈で筋が通るようにできている作品は「できが良い」と思います。
解釈が一つしかできないのではなく、見方や想像力によって、どんどん解釈の幅や奥行きがふくらんでいく作品が理想的だと。

たとえば、ぼくは妖奇士を『現代日本の若い世代の抱える焦燥感(ぬるま湯に浸かる自分との葛藤)』といった切り口でとらえましたが、もっと別な解釈もできると思います。
そういうふうに受け手がある切り口から見た際に、設定やシナリオの「意味づけの毛並み」がきちんと揃っていることが出来の良し悪しだろうと思うのです。


そうやって、ひとつの視点を持って妖奇士を眺めてみると、

ひとの心に住まう幻想……『ここじゃないどこかを求めるこころ』……は裁けない

それに人一倍惹かれながらも、妖夷と戦う『奇士(あやし)』たちの存在

ひとを殺すのでなく、そのひとが作り出してしまう妖夷をこそ倒す。それが奇士の役目なのだということ

ひとはひとりひとり異なる。みな異人なのだという言葉

ひとはこの世で生き、生きるために食べるということ

……そういったメッセージたちが、明確かつ力強く作品のテーマを浮き彫りにしていきます。
作品の根底に敷き詰められた強いメッセージ性がステキなだけに、ここから先、この作品が生きるか死ぬかは、どれだけ初志貫徹でまっすぐに深く深く「初志」に踏み込めるかだなと思っています。


(※)二期(十三話)になってOPが変わりました。残念な予想が的中してしまい、二期のOPにはまったく力がありませんでした。ややここ数話の展開に遊びが増えてきたのは、制作スタッフが作品に馴染んできたからだと解釈し、ヘンな方向のテコ入れが入ったとは考えたくないものです。ノリや萌えに走らずに初期の作風を守ってそのまま伸ばしてくれれば、この作品はとても良いものに仕上がりそうですし。
と思っていたら、この新OPです。このOPは残念ながら「一期のメッセージ性」の延長線上にはなく、ここまでの「流れ」をブツリと切ってしまうものでした。物語もそうならないことを祈りたいものです。好きな作品なだけに、すごく嫌な予感が膨らみます。


がつんと金槌で頭を殴られたような衝撃を受けた歌があります。

槇原敬之の『店じまい』です。

アルバムのなかで一番地味なタイトルだったこの歌が伝えようとしていることが、ぼくにとって一番衝撃的で、思わぬ伏兵、完全な不意討ちでした。
おそらく今の日本人が一番持つべきメンタリティだろうと思います。


「加担しない」という決断によって、自己責任をまっとうする心です。

じぶんは無関係だと思わない心。

この歌が問いかけてくることはとてもシンプルなことです。

身近な例でいえば、赤信号をみんなで渡るか、渡らないか、というような問いです。


『店じまい』は痛烈な仕掛けでもって、自分のいまの幸せ(日常生活)と、異国の戦争の不幸とが直接的な接点を持ち、それに気づかされた男の懊悩を描いています。

その切り口の鋭さに、本当にどきっとしました。

 

この歌は痛切に問いかけてきます。

「じぶんひとりがやめたくらいで、世の中は何も変わらないし……」

ぼくらひとりひとりがそう想いつづけているかぎり、社会はいつまで経っても何も変わらないという、至極当然の事実を告げてくれます。

 

『いま、この歌を聴いたあなたが、明日からもおなじように(社会の一員である自分を無意識のうちに棚上げして)漫然と社会を憂えて生きてくだけの人間だったら、いつまでたっても未来はよくならないぞ』

そう言われている気がして、胸が苦しくなりました。

この歌は、ぼくのなかにあった「何もできないじぶん」という幻想を打ち砕いてくれました。「ぼくの立場じゃなにもできないから」という言い訳をじぶんに対してし続けてきた自分にきづいたのです。

そして、ぼくにできることがたくさんあることに気づきました。

それが『店じまい』です。


無自覚なじぶんの行ないに気づき、「やめる」こと。

知らないうちにじぶんは、異国の戦場の悲劇に(否定しないというやり方でもって)加担・肯定しているのではないか? ぼくらひとりひとりが、そういう問いをじぶんに対して立てないうちは、異国の戦争も終わらないのです。

無自覚・無関心であることがうまく利用されている例が、世の中にはたくさんあります。

これは、遠い国の話だけでなく、すべてのものごとに対するメンタリティの話です。


わりと前の話になりますが、とあるきっかけからPCゲーム『Fate/stay night』をやりました。

そして、これまた打ちのめされました。
すげー出来栄えのゲームでした。

ぼくがすげーというのは、だいたいが『(テーマなどを)伝える為の仕掛けがすごい』という意味です。


美少女ゲームはプレイヤーの一人称で語られるから感情移入しやすく没入感が高いとか、この5、6年の流れとして感動重視型の「泣きゲー」が流行っているという予備知識はあったものの、ぼくは正直パソコンでまともにゲームをプレイしたのは「ウィザードリィ外伝 戦闘の監獄」しかありませんでした。
(「戦闘の監獄」もまた往年のウィズファンならば魂をくすぐられる作品です)

ということで、『Fate/stay night』はぼくがまともに熱中した記念すべきPCゲーム第一作です。(なので、この作品が他とくらべて突出しているのかどうかはわかりません)


プレイしてみて、そのクオリティの高さと構造の妙に感激しました。

プレイしたひとならわかると思いますが、感動の最大の理由は、1周目のシナリオによって描かれたドラマ(テーマ)を、2周目のシナリオで別人物の視点を交えて、もういちど主人公とともにドラマ(テーマ)を語りなおす点です。
それもただ語りなおすのではなく、テーマの考察を一歩深めた内容を突きつけられることになります。

この構成によって、一周目で語られたテーマの『深度』をさらに一段深めているのですが、ただ深めているというよりは、重ねることで『厚み』を増しているというべきでしょうか。

プレイヤーは新しい刺激(さらに踏み込んだ展開や葛藤)を与えられながら、ドラマ(テーマ)を反復することで、ぐっとテーマに対する思い入れを深めていきます。

 

ただ単に、「繰り返しプレイ」というゲームの特性を活かしているというレベルではなく、「没入感の高いPCゲームの特性」を活かして「小説」を著し、「ゲームの特性である繰り返しプレイ」により「二重の厚みを持たせた深みのある小説作品」に仕上げたことが、何よりも秀逸だと感じます。

おそらく美少女ゲームの多くは、分岐していく多数のルート(シナリオ)をプレイすることで、多角的に物語や世界を伝える仕組みが基本的な構造だと思うのですが、聞いた話だとほとんどが「横の広がり」でドラマを繋げていくことや、クリアごとに情報の階層を深めていく手法で、『Fate/stay night』のように「ドラマ(メッセージ)を縦に重ねて掘り下げるタイプ」はあまりないようです。

縦に掘り込むには、深い考察力と構成力・筆力が要求されるので、誰にでもできる技ではないでしょう。
『Fate/stay night』を「すごい」と思うのは、(好きな要素はたくさんありますが)なによりこの一点においてドラマの形成が秀逸だからです。


(※)残念ながら、2回しかプレイしていないので3周目についてはまだ知りません。
(※)美少女ゲーム(泣きゲー)にこのレベルまでドラマを掘り下げている作品が他にもたくさんあるのだったら、すごい業界なのだなと思います。


何度か時かけを観た頃から、ぼくは「ぼくはなぜこの作品をもっともっと観たい衝動に駆られるのか?」という疑問と「気持ちの正体を知るため、納得いくまで観つづけてやる」という決意を抱いていました。

その想いを胸に多大な感動の海にたゆたっていたぼくは、ながい鑑賞期間を経て、最後の一回となった上映を見ながら、そのこたえを見つけました。

 

ぼくにとっての時かけは、壮大なモラトリアムの誘惑であり、「こどもであるじぶん」に浸る時間だったのです。

そしてぼくは「おとな」になる為に、心の器がいっぱいになって心が納得するまで「こどもの時間」を満喫する。その為に、ただひたすら時かけを浴びつづけていたのだと知りました。

エンターテイメントや芸能は、そもそも現実の労苦から心を解放し、楽しみ、夢をみ、人生を豊かにするものでもあるので、「浸ればいい」んですが、今のぼくの場合に限っては、事情がすこし異なりました。

ここで言う「こども」と「おとな」の違いを言葉にするなら、たぶん
〃無自覚に夢をみつづけるこどもでいたいじぶん〃(→こども)
〃夢をみながらもきちんと現実を歩いていくじぶん〃(→おとな)
という風になります。

ちょうど真琴が「自覚」し未来を選んだように、ぼくはぼくのもとめる夢(生き方)をきちんと「自覚」してこれからを生きていくんだ。
そういったことを自分のこころに刻む為の儀式。
こどもからおとなへの精神的な脱皮。

それが、時かけ月間の正体でした。

ということで、これからのぼくはじぶんの夢に対して責任を持ち、自覚的に生きるぞ、と決意したわけです。

 

この映画は「心の中のモラトリアム」に決着がついていないひとにとっては、おそらく絶大な威力(と中毒性)を持っている作品だと思います。

ぼくの場合はそうでした。

あまりに鮮烈で魅惑的な感動と夢の無限ループだったが為に、自覚と無自覚のあわいを彷徨っていたぼくはそれを逆手にとり、どっぷり無自覚の底に沈みきり荒療治とすることで、自分自身の課題をクリアしたのだと思います。
この作品と出逢った今のぼくが、そういう付き合い方を選んだ、ということです。

でも、自分のこころをぜんぶ預けきることができる作品など人生のなかでそう何回も出逢うことはできません。
そういった意味で、ぼくはとても恵まれていたように思います。時かけと出逢うことで、心の通過儀礼を果たすことができました。

だから、この作品はぼくにとって、特別な一作です。


(※)1/4の『時かけ』コメントを見た友人から「こら。もっと深いとこまで書け」とお叱りを受けたので、続編として「なぜぼくは観つづけたのか」を2回にわけて突っ込んで書きます。

今回は、映画との出逢いと鑑賞期間編。

 

時かけを見たぼくは、溢れんばかりの感動の雨に打たれ放心しました。
涙でスクリーンが見えなくなりひたすら嗚咽をこらえるというのは、あとで思うとなかなか嬉しい体験です。

あれほど狂ったように突き動かされ映画館に日参したのだから、人生至上無類の感動だったのだと思います。

 

タイムリープという能力を得たことで、ヒロインが有頂天になり無自覚かつ無邪気に遊びまくった結果、どんどん事件が広がっていくシナリオは、面白くかつ今の社会の病理をうまく透写しています。

お調子者で直感型。ちょっと(だいぶ?)おまぬけなヒロイン・真琴が愛らしくて仕方ない。

時空間を転がるようにして弄ばれていた真琴が、自分の本心に気づき、最後には自分の意思で時間(未来)を選び取る姿。

事件のきっかけとなった一枚の絵の存在。その意味。

場面展開の軽妙さと心地よさ。

最近減ってきた、トゲのない素直でまっすぐな作風。

奥華子さんの透明感のある歌声。

ひたむきな気持ちに突き動かされ、ただただ疾走する真琴のすがた。


そのどれもが、ぼくの胸に深く響き、強烈に惹かれました。
なぜこんなにも胸が熱くなって止まらないのだろう。そう考えた時、こんなにも感情をむき出しにして生きる人間の姿をあまり見かけることがなくなったからだと気づきました。
そして、ぼく自身こそがこんなにも素直に感情を発露させることがなくなっていたことに気づかされました。

じぶんが失っていたもの。
それが、モラトリアムの魔法をかけられてぼくのこころに降りかかってきたのです。

真琴の晴れやかな姿を見ながら、いろいろなものに囚われてしまい、こころをくすぶらせていたじぶんを感じ、同時に触発され閉じていた感情の扉のカギが吹っ飛び、バンバンひらきました。

この映画をみつづけた期間は、感情の洪水にとつぜん襲われてぼく自身が戸惑っていたのだと思います。


理論的に時かけを評価することはいろいろできますが、この映画がズバぬけてすごいところは、そういった巧みさを踏み台にして、〃むきだしの感情の渦〃で受け手を呑み込んでしまう理屈を越えたところにあります。


極限まで純化された、はだかの感情表現。

それが、時かけのすごいところであり、ぼくが愛してやまないところです。



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