自分が感銘を受けたあらゆるジャンルの作品を完全な主観で備忘録的に書きとめていきます。 ■このブログの続きとして、【2109年を生きるゲーム職人への手紙。】に移転しました。 ■ときどきネタバレを含むのでご注意のほどを。
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こういう試みがぼくも大好きだからです。
(※以下に、本の仕組みのことを少し書きます。できるだけネタバレしないよう気をつけますが、「どういった雰囲気か」はわかってしまいます。未読の方はご注意ください) (※落ち着いて読む時間がなかったので見落としているものがあるかもしれません。時間ができたら読み返して加筆・変更するかもしれませんが初見ということで)
読んでみた感想は「残念」の一言でした。 ぼくが期待していたような作品とはすこし違いました。 感じたことを書きます。
「残念」の理由は、「一度目に読んだときのドラマ」と「二度目に読んだときのドラマ」の『読者の視点』が〃著しくは変化しなかった〃点です。 きちんと、メタ視点を用い、ドラマにもう一重の意味を重ねていて、サプライズも用意されていましたが、〃わざわざ鉛筆でこすってまで二度読ませる〃ほどの【大きな変化】とは感じませんでした。 一度目のクライマックス~ラストシーンで描かれる「真相」と「発見(驚き)」の内容と比べると、二度目に用意されていた「発見」はわりと予測の範囲内だったため、「ポーナスエピソード」のような付随的な印象でした。
ぼくが期待していたものは、 そこまでの変化はありませんでした。
この企画(本)は、「鉛筆でこすって二度(三度)読ませる」ことをコンセプトとしている以上、二度目、三度目に、より強烈なインパクトがなければ、「二度読ませる意味」が希薄になってしまいます。 実際、二度目で得られる感動や発見は、別の手法でも(もちろん手触りは異なりますが)代替可能な発見や感動だと思います。
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この作品のテーマは、今の日本に生きているぼくら(若い世代)が抱える『心の病』に触れるものだと思っています。 「自分探しの幻想」や「青い鳥症候群」に代表されるような、焦がれるようなどうしようもない内的衝動についてです。
そのなかで、まだ主人公が持つ特異な能力『漢神(あやがみ)』の存在する意味について触れてこないところを見ると、クライマックスで一気に明かすようです。 (※)『漢神(あやがみ)』とは、人や物から、その名前の原義(真の意味)を取り出し、武器や力に変える特殊能力のことです。
『漢神』は『漢神』でしかないという点は、ひとまず語られると思うのですが、ぼくの個人的な思いとしては、「それではちょっと踏み込みが足りないのでは?」と思ってしまいます。
この作品が、これまで描かれてきた多くの「自分探し」をテーマにした作品と同じなら、クライマックスに『漢神』の存在意義……と、そこから導き出される答え……が解明され、主人公・往壓(ゆきあつ)が自分の道を見つけ、これからも歩んでいく、といったもので構いません。 ですが、ここまで面白い題材(設定)を用意したのだから、今のぼくらが抱えている『自己肯定感の喪失』といったタイムリーな深いテーマに踏み込んで欲しいところです。 これを描くことを念頭におくと、『漢神』の意味の解明はどちらかというと出発点になります。
「もしかしてそこに切り込んでくれるかな?」という期待を当初から持っていたのですが、2クール構成ならそうではなさそうです。
それでも 「なぜ、彼(彼女)は逃げざるを得なかったか」 そこをしっかり魅せて欲しいと思ったのです。 今回は、喜びの叫び。 ウィザードリィの遺伝子を受け継ぐ者(魅せられた者)の一人として、このゲームは避けて通れない。 いやそれどころか、ずっと迷いに迷いきっかけをつかみあぐねていた『NintendoDS(Lite)』をついに購入してしまった。 そう、アトラスから発売されたRPG『世界樹の迷宮』をプレイする。 そのためである。 ウィザードリィシリーズの魅力の一つである「ダンジョンマップの手描き作業」であるが、『世界樹の迷宮』では、DSの二画面を利用して、二つ目のウインドウで常時マップ作成ができるようになっている。 待ちに待ったプレイ感触は筆舌に尽くし難い快感をともなっていた。 タッチペンでのマッピング作業もスムースで、とても心地よい。 う~ん、もうこれだけでうっとりしてしまうのは、ぼくがウィズ因子に冒されているからである。 手描きマッピングのこの快感・・・。 ・・・。 う~ん、すてき・・・。 ちなみにゲームはまだはじめたばかりなのでどうこう言えないけれども、第一印象はかなり好感触です。 余計な演出や設定がなく、とても遊びやすいです。 何度でも書いてしまおう。 手描きマッピング。う~ん、すごく快感。 マッピング欲求(?)が満たされます。 (※)プレイ前からウィズ因子に感染していない方が、マッピング作業をどう受け止めるかはわかりませんけど、ハマってくれたら嬉しいですね。
『全霊を傾けた創作』とは、どれほどのものか? 集団創作の場で、いかに自己実現を果たすか?
現在のぼくからすれば遥か高みにいる人間ですが、同じクリエイタとしてこれほど理想に近い人間はおらず、心から「同じ高みに立ちたい」「追いつこう」と思えるクリエイタです。
出逢ったといっても、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で放映された指揮者・大野和士の番組を観ただけなのですが、そこに映された彼の生き様がぼくの胸を打ち抜きました。 彼は、まさに人生を賭けて作品を生み出す第一級のクリエイタです。わざわざ門外漢のぼくが言うまでもなく、世界的な評価がそれを証明しています。 ぼくは、音楽関連の制作技術と知識を持っていないので、これまで「オーケストラの指揮者とはすごい仕事だな」と漠然と感じているだけでした。
「作品を解釈する」のではなく、「作品と会話する」。それは作品を別の角度から自分流にとらえるということではなく、まさに作品そのものを吸収し、自らが語るという行為です。作品を己の血肉にして、はじめてタクトを握る。 「公演日(〆切)にベストの作品を仕上げる」ために、どんな状況やトラブルが襲ってこようと、ひるまず自らが解決に挑む姿勢。 これほどの哲学とポリシィを貫きながら、同時に、何十人もの人間と十全にコミュニケーションをとり、彼らひとりひとりの力を発揮させるべく、彼らをリラックスさせ解放していく指揮者としての仕事ぶり。 これほど真摯に作品と深いレベルで向き合いながら、仲間との円滑なコミュニケーションと共同作業を行ない、そして〆切までに必ず作品を理想的なカタチに創り上げる構築能力と集中力。
ぼくには、結果として生まれてくる彼の作り出す音楽がどれほど秀逸なものなのかは、正直よくわかりません。
みんなが幸せになれればいいな。 ぼんやりとそう願ったりすることがありますが、世界から戦争や貧富の差はなくならない。大切であるはずの、ひとや動植物の生命も日々摘みとられていく。 おそらく谷口悟朗監督の命題のひとつでもあり、物語のキーパーソンである『カギ爪の男』は、そのことを考えつづけたキャラクターです。
混沌の側を主人公とした、秩序との対立。 ぼくはナチュラルに秩序側から物事をみる人間なので、谷口監督の逆からの視点はとても面白く楽しませてもらっていますし、メッセージ性バリバリの明確な対立構造と、それぞれの信念に基づくキャラクターたちの命懸けのバトルも大好きです。 ガン×ソードの魅力は、リズミカルで心地よい作品テンポやポリシィの明確なキャラなどもありますが、なんといっても「善の理屈を悪の屁理屈が押しのけていく」ところです。 その思想や考え方・生き方だけをみれば、主人公であるヴァンよりも、敵として登場する者たちの方が、人として正しかったり、まっとうであるにも関わらず、彼らは衝動のままに突き進むヴァンの前に敗れていきます。 そこに、この作品の巧妙さと、たどり着くメッセージがあります。 想いに囚われること、思想に囚われることによって、ひとが見失ってしまうものがあります。
この作品の主人公・往壓(ゆきあつ)が39歳(高年齢)でなければ、ぼくはこれほど注目し、そして深い感銘をうけなかったと思います。
それ以来、彼は『異界(夢の魔力)』に囚われ、『現実(空虚な毎日)』から逸脱してしまい、気がつけばいい大人になってしまっていました。 この生き遅れた感のある男が、ある事件をきっかけに『異界』へ逃げず、『異界』から逃げることもやめ、そして『現実』に踏みとどまる決意をすることで、この物語は幕をあけます。
職も未来もない歳をくった主人公(実は成熟した大人でもあるのですが) 天保という時代を土台に、これらの設定を加えることで、夢と現実の両立や、精神的な自立にすっかり不器用になってしまった今の(日本の若い)『世代観』を、これほどみごとに描き出している、設定の妙にぐっとハートを鷲づかみされました。 妖奇士がストレートに描いているのは、まぎれもなく『いまを生きるぼくら』の姿です。
受け手の感性などによって異なる多様な視点からその作品をとらえたときに、いくつもの解釈で筋が通るようにできている作品は「できが良い」と思います。 たとえば、ぼくは妖奇士を『現代日本の若い世代の抱える焦燥感(ぬるま湯に浸かる自分との葛藤)』といった切り口でとらえましたが、もっと別な解釈もできると思います。
ひとの心に住まう幻想……『ここじゃないどこかを求めるこころ』……は裁けない それに人一倍惹かれながらも、妖夷と戦う『奇士(あやし)』たちの存在 ひとを殺すのでなく、そのひとが作り出してしまう妖夷をこそ倒す。それが奇士の役目なのだということ ひとはひとりひとり異なる。みな異人なのだという言葉 ひとはこの世で生き、生きるために食べるということ ……そういったメッセージたちが、明確かつ力強く作品のテーマを浮き彫りにしていきます。
槇原敬之の『店じまい』です。 アルバムのなかで一番地味なタイトルだったこの歌が伝えようとしていることが、ぼくにとって一番衝撃的で、思わぬ伏兵、完全な不意討ちでした。
じぶんは無関係だと思わない心。 この歌が問いかけてくることはとてもシンプルなことです。 身近な例でいえば、赤信号をみんなで渡るか、渡らないか、というような問いです。
その切り口の鋭さに、本当にどきっとしました。
この歌は痛切に問いかけてきます。 「じぶんひとりがやめたくらいで、世の中は何も変わらないし……」 ぼくらひとりひとりがそう想いつづけているかぎり、社会はいつまで経っても何も変わらないという、至極当然の事実を告げてくれます。
『いま、この歌を聴いたあなたが、明日からもおなじように(社会の一員である自分を無意識のうちに棚上げして)漫然と社会を憂えて生きてくだけの人間だったら、いつまでたっても未来はよくならないぞ』 そう言われている気がして、胸が苦しくなりました。 この歌は、ぼくのなかにあった「何もできないじぶん」という幻想を打ち砕いてくれました。「ぼくの立場じゃなにもできないから」という言い訳をじぶんに対してし続けてきた自分にきづいたのです。 そして、ぼくにできることがたくさんあることに気づきました。 それが『店じまい』です。
知らないうちにじぶんは、異国の戦場の悲劇に(否定しないというやり方でもって)加担・肯定しているのではないか? ぼくらひとりひとりが、そういう問いをじぶんに対して立てないうちは、異国の戦争も終わらないのです。
そして、これまた打ちのめされました。 ぼくがすげーというのは、だいたいが『(テーマなどを)伝える為の仕掛けがすごい』という意味です。
ということで、『Fate/stay night』はぼくがまともに熱中した記念すべきPCゲーム第一作です。(なので、この作品が他とくらべて突出しているのかどうかはわかりません)
プレイしたひとならわかると思いますが、感動の最大の理由は、1周目のシナリオによって描かれたドラマ(テーマ)を、2周目のシナリオで別人物の視点を交えて、もういちど主人公とともにドラマ(テーマ)を語りなおす点です。 プレイヤーは新しい刺激(さらに踏み込んだ展開や葛藤)を与えられながら、ドラマ(テーマ)を反復することで、ぐっとテーマに対する思い入れを深めていきます。
ただ単に、「繰り返しプレイ」というゲームの特性を活かしているというレベルではなく、「没入感の高いPCゲームの特性」を活かして「小説」を著し、「ゲームの特性である繰り返しプレイ」により「二重の厚みを持たせた深みのある小説作品」に仕上げたことが、何よりも秀逸だと感じます。 おそらく美少女ゲームの多くは、分岐していく多数のルート(シナリオ)をプレイすることで、多角的に物語や世界を伝える仕組みが基本的な構造だと思うのですが、聞いた話だとほとんどが「横の広がり」でドラマを繋げていくことや、クリアごとに情報の階層を深めていく手法で、『Fate/stay night』のように「ドラマ(メッセージ)を縦に重ねて掘り下げるタイプ」はあまりないようです。 縦に掘り込むには、深い考察力と構成力・筆力が要求されるので、誰にでもできる技ではないでしょう。
その想いを胸に多大な感動の海にたゆたっていたぼくは、ながい鑑賞期間を経て、最後の一回となった上映を見ながら、そのこたえを見つけました。
ぼくにとっての時かけは、壮大なモラトリアムの誘惑であり、「こどもであるじぶん」に浸る時間だったのです。 そしてぼくは「おとな」になる為に、心の器がいっぱいになって心が納得するまで「こどもの時間」を満喫する。その為に、ただひたすら時かけを浴びつづけていたのだと知りました。 エンターテイメントや芸能は、そもそも現実の労苦から心を解放し、楽しみ、夢をみ、人生を豊かにするものでもあるので、「浸ればいい」んですが、今のぼくの場合に限っては、事情がすこし異なりました。 ここで言う「こども」と「おとな」の違いを言葉にするなら、たぶん ちょうど真琴が「自覚」し未来を選んだように、ぼくはぼくのもとめる夢(生き方)をきちんと「自覚」してこれからを生きていくんだ。 それが、時かけ月間の正体でした。 ということで、これからのぼくはじぶんの夢に対して責任を持ち、自覚的に生きるぞ、と決意したわけです。
この映画は「心の中のモラトリアム」に決着がついていないひとにとっては、おそらく絶大な威力(と中毒性)を持っている作品だと思います。 ぼくの場合はそうでした。 あまりに鮮烈で魅惑的な感動と夢の無限ループだったが為に、自覚と無自覚のあわいを彷徨っていたぼくはそれを逆手にとり、どっぷり無自覚の底に沈みきり荒療治とすることで、自分自身の課題をクリアしたのだと思います。 だから、この作品はぼくにとって、特別な一作です。
今回は、映画との出逢いと鑑賞期間編。
時かけを見たぼくは、溢れんばかりの感動の雨に打たれ放心しました。 あれほど狂ったように突き動かされ映画館に日参したのだから、人生至上無類の感動だったのだと思います。
タイムリープという能力を得たことで、ヒロインが有頂天になり無自覚かつ無邪気に遊びまくった結果、どんどん事件が広がっていくシナリオは、面白くかつ今の社会の病理をうまく透写しています。 お調子者で直感型。ちょっと(だいぶ?)おまぬけなヒロイン・真琴が愛らしくて仕方ない。 時空間を転がるようにして弄ばれていた真琴が、自分の本心に気づき、最後には自分の意思で時間(未来)を選び取る姿。 事件のきっかけとなった一枚の絵の存在。その意味。 場面展開の軽妙さと心地よさ。 最近減ってきた、トゲのない素直でまっすぐな作風。 奥華子さんの透明感のある歌声。 ひたむきな気持ちに突き動かされ、ただただ疾走する真琴のすがた。
じぶんが失っていたもの。 真琴の晴れやかな姿を見ながら、いろいろなものに囚われてしまい、こころをくすぶらせていたじぶんを感じ、同時に触発され閉じていた感情の扉のカギが吹っ飛び、バンバンひらきました。 この映画をみつづけた期間は、感情の洪水にとつぜん襲われてぼく自身が戸惑っていたのだと思います。
それが、時かけのすごいところであり、ぼくが愛してやまないところです。 |
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