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自分が感銘を受けたあらゆるジャンルの作品を完全な主観で備忘録的に書きとめていきます。 ■このブログの続きとして、【2109年を生きるゲーム職人への手紙。】に移転しました。 ■ときどきネタバレを含むのでご注意のほどを。
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つい先日、新海誠監督の新作アニメ『秒速5センチメートル』を見ました。
二話の途中まで見たあたりで、あまりの気持ち悪さにゾゾゾっとした寒気を覚えてしまいました。

これまでの新海さんの作品にも同様の感触を感じてはいたのですが、この作品ではその気持ち悪さがドキリとするほど強く浮き彫りになっていたので、強い嫌悪感を感じるとともに、とても驚きました。

ですので、今回はぼくが新海誠さんの作品に感じる、この「寒気」の正体について書いてみたいと思います。

 

ぼくが気持ち悪いと思ったものを一言で表すと、それは強烈な【乖離感】です。

現実と、登場人物の心の在り方の、乖離。

マンガ的生物描写と、リアルな静物描写の、剥離感。

映像の奥行きに比して、極端に平坦な人間描写。


新海さんの持ち味は、多くの声が証明しているように【静】の表現力です。
風景描写の中にキャラクターの心情を溶け込ませるような、うっとりとした映像表現が、ぼくも魅力だと思います。

ですが、その裏返しとして新海さんの弱点は【動】の表現だといえるかと思います。

生きた人間の表現。

これまでもそうでしたが、これだけ作品を重ねても磨かれてこないということは、この点がどうも、そもそも描けないようです。

描けないというよりは、描きたいものではない為に、目に映っていないというべきでしょうか。


今作では【静】の描写が精密で技術的にも以前よりぐっとレベルが上がっていたが為に、【動】の表現の未熟さ・ぎこちなさがもの凄く目に付いてしまい、結果として、それが「著しい落差」として映りました。

「情景描写(静)」の綿密さが凄ければ凄いほど、「生物描写(動・心の躍動)」の薄っぺらさと雑さが、際立ってしまう。
それが、ぼくの感じたギャップ。気持ち悪さの正体だろうと思います。

写真を使った風景のリアルさに比べて、生物(人間)や海や雲の表現動作があまりにもマンガ的な為に、このギャップは生まれています。

少しキツい言い方になりますが、静と動のこの著しい落差は「イビツ」だと感じました。

これも厳しい言葉になりますが、このイビツさはこの作品単体のものでなく、新海さん自身の世界の捉え方や視点が、無意識的かつダイレクトに表出している部分であり、作品の制作内容や技術などでなく、企画コンセプトや制作体制など(つまり作品の外側)から来る問題だと感じました。

姿勢の問題といってもいいです。

 

ずいぶん前に見た『ほしのこえ』の時代から同じような「偏り(※決して悪い意味ではなく、長所短所のある偏りをもった個性という意味です)」を持っていましたので、それ自体に特別驚いたわけではありません。

それが今回、長所(静の描写)が際立った分だけ、それ以上に短所である「動の未熟さ」が目に余るようになっていたので、このまま静の表現だけを極めていき、人間のもっとナマな表現は切り捨ててしまうのだろうか? すると、このイビツさがどんどん肥大していくのではないだろうか?……と不安を覚えたのです。


先ほども言ったとおり、これは「姿勢(作品の外側)」の問題で、新海さん本人はおそらくこの「イビツ」さを感じることはできません。
ぼくがぼく自身の「イビツさ」に気づくことができないのと同じように、これは、まわりの人間が「それはイビツだよ」と指摘することで初めて本人の感覚が経験的に磨かれる類のものだからです。

だから、新海さんが新海さん自身の感覚だけを指針にして作品創りをつづけているうちは、「静の映像表現だけが巧みな秀作」の域をいつまでも出られないだろうと思います。

 

知人ともたまにそういった話題が出ますが、新海さんは映像クリエイターとしてはとても稀な才能を持っていますが、ドラマ作りに関しては、ある一定のコンセプト以上のものを打ち出せる方ではないようです(今は少なくとも)。

その限界が今回の「イビツさ」にも影響しています。


ここから抜け出るには、一度、原作やシナリオをドラマ作りのプロに譲って、(絵コンテ~CG編集など)映像パートだけを受け持つアニメーターとしての仕事を経験してみるのが良いだろうと思います。

じぶんより深い人間考察のできる、プロのドラマ作りの眼や世界観を、スタッフとして体感することで、「じぶんに表現できないもの」の豊かさ・大きさに目をむけると、大きな収穫が得られるのではないか? そういう考えです。

自身の感覚だけに頼らず、もっと大きな「器」の中で生きることでそれを吸収する。そういった姿勢で、一度制作に臨むと、世界がまた違った広がりを見せるだろうと思うのです。

これが、作品ではなく、企画そのもののコンセプト(どのような目的・意図で創作に取り組むのか)の問題だと言った点です。


それと同時に気になるのが、制作体制のことです。
阿吽の呼吸で共に戦える仲間の存在はかけがえのないもので、不可欠なものです。
ですが、『ほしのこえ』時代から『秒速5センチメートル』までを通して見てみると、新海さん自身の抱えた(ドラマ作りの面から見れば致命的な)この「イビツな偏り」が、まったく補正できていません。

これは本人に帰するところもありますが、どちらかというと周囲にそれを指摘できる人間がいないということを示しているのだろうと思います。

これはぼくの想像ですが、プロのドラマ作りができる人間、その眼を持った人間がそばにいないのでしょう。
作品から伺える(ドラマ作りの未熟さに対する)無自覚さがそれを感じさせます。

これが、制作体制について感じることです。


長くなりましたが、こういった事情などがあり、今作のこの痛烈な【乖離感】に繋がったのだろうとぼくなりに考察してみました。

一話の表現など見ると、今でもため息をつきたくなるシーンがあり、新海さんの映像センスの非凡さを感じるほどに、人間描写の稚拙さと、ドラマ作りの弱さ(狭さ)を感じずにはいられません。
(※この弱さ・狭さとは、センチメンタルでモラトリアムなドラマ作り・心象的ムード作りにはとても秀でているが、それ以外……そこから一歩でも外に出た、それより先に広がる深く広大な世界やあまた渦巻く生身の人間の感情や生き様を表現することができない……という意味です)

これはスキルの話ではなく、人間観の話ですので、やはり一度じぶんよりも大きな「器」の中で生きてみるのが、一つの契機になるだろうと思うのです。


(※)ぼくが説明したかった「感触」を、別な言葉でもっとわかりやすく解説してくれてます。ぜひこちらもどうぞ↓
天のさだめを誰が知る!?

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