自分が感銘を受けたあらゆるジャンルの作品を完全な主観で備忘録的に書きとめていきます。 ■このブログの続きとして、【2109年を生きるゲーム職人への手紙。】に移転しました。 ■ときどきネタバレを含むのでご注意のほどを。
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惹かれるのに、どうしても好きになれない作品というのがあって、『交響詩篇エウレカセブン』もそうでした。
好きになれない理由が2つあります。
「レントンの純粋な少年の視点」だけに絞り込んで描かれていれば、とても伸びやかで気持ちの良い作品に仕上がっていたのだろうと思いますが、残念ながらぼくには「大人の視点のいやらしさ」が強く感じられて、観るのをやめてしまいました。 映画で言えばカメラを持っている人間のアクというか、作品のフレームワークの問題でしょうか。
ここは、とても好きです。
「大人の都合(悲哀の押し付け)」が、作品そのものを嘲笑してしまっているのです。 これは監督(もしくは企画チーム)からにじみ出てくる『個性(毒という表現でもいいです)』ではないかな、と思っています。
(※「なってしまった」と書きましたが、そうコンセプトしたのかも知れません)
それは、エウレカセブンを象徴するこの言葉にも如実に表れています。
●『強請るな、勝ち取れ、さすれば与えられん!』 作品のメッセージを示す言葉なのだと思います。 全編を精査したわけではないので実は本当のメッセージはもっと違うのかもしれませんが、少なくとも作品のカラーを決定づける痛烈なメッセージ性を帯びた言葉であることに変わりはありません。
このキーワードを導き出した、という意味では、エウレカセブンの企画チームは凄いな、と感心します。 ですが、ぼくはどうしてもこれが好きになれません。
そして、その狭い世界観に同調してしまう今の日本社会の空気を、もちろん自分もそこに生きている人間として受け止めつつも、哀しく感じます。
原文と並べてみれば、その深みの違いは一目瞭然です。
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上記の「求めよ~」だけでは、もとの言葉の奥行きを解釈しきれないので、原文を掲載しておきます。 探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。 たたきつづけなさい。そうすれば開かれます。 「強請るな、勝ち取れ、さすれば与えられん!」……という強い言葉を打ち出せたのなら、それと対になるような……またはそれを出発点として、もう少し違った世界との接し方を、もう一つ『答え』として用意しても良かったのではないか?と思います。 そうであれば、その言葉こそが受け手の記憶に残るような作品であれば、ぼくは手放しにエウレカセブンが好きだったと思います。 PR
これまでの新海さんの作品にも同様の感触を感じてはいたのですが、この作品ではその気持ち悪さがドキリとするほど強く浮き彫りになっていたので、強い嫌悪感を感じるとともに、とても驚きました。 ですので、今回はぼくが新海誠さんの作品に感じる、この「寒気」の正体について書いてみたいと思います。
ぼくが気持ち悪いと思ったものを一言で表すと、それは強烈な【乖離感】です。 現実と、登場人物の心の在り方の、乖離。 マンガ的生物描写と、リアルな静物描写の、剥離感。
ですが、その裏返しとして新海さんの弱点は【動】の表現だといえるかと思います。 生きた人間の表現。
「情景描写(静)」の綿密さが凄ければ凄いほど、「生物描写(動・心の躍動)」の薄っぺらさと雑さが、際立ってしまう。 写真を使った風景のリアルさに比べて、生物(人間)や海や雲の表現動作があまりにもマンガ的な為に、このギャップは生まれています。 少しキツい言い方になりますが、静と動のこの著しい落差は「イビツ」だと感じました。 これも厳しい言葉になりますが、このイビツさはこの作品単体のものでなく、新海さん自身の世界の捉え方や視点が、無意識的かつダイレクトに表出している部分であり、作品の制作内容や技術などでなく、企画コンセプトや制作体制など(つまり作品の外側)から来る問題だと感じました。 姿勢の問題といってもいいです。
ずいぶん前に見た『ほしのこえ』の時代から同じような「偏り(※決して悪い意味ではなく、長所短所のある偏りをもった個性という意味です)」を持っていましたので、それ自体に特別驚いたわけではありません。 それが今回、長所(静の描写)が際立った分だけ、それ以上に短所である「動の未熟さ」が目に余るようになっていたので、このまま静の表現だけを極めていき、人間のもっとナマな表現は切り捨ててしまうのだろうか? すると、このイビツさがどんどん肥大していくのではないだろうか?……と不安を覚えたのです。
だから、新海さんが新海さん自身の感覚だけを指針にして作品創りをつづけているうちは、「静の映像表現だけが巧みな秀作」の域をいつまでも出られないだろうと思います。
知人ともたまにそういった話題が出ますが、新海さんは映像クリエイターとしてはとても稀な才能を持っていますが、ドラマ作りに関しては、ある一定のコンセプト以上のものを打ち出せる方ではないようです(今は少なくとも)。 その限界が今回の「イビツさ」にも影響しています。
じぶんより深い人間考察のできる、プロのドラマ作りの眼や世界観を、スタッフとして体感することで、「じぶんに表現できないもの」の豊かさ・大きさに目をむけると、大きな収穫が得られるのではないか? そういう考えです。 自身の感覚だけに頼らず、もっと大きな「器」の中で生きることでそれを吸収する。そういった姿勢で、一度制作に臨むと、世界がまた違った広がりを見せるだろうと思うのです。 これが、作品ではなく、企画そのもののコンセプト(どのような目的・意図で創作に取り組むのか)の問題だと言った点です。
これは本人に帰するところもありますが、どちらかというと周囲にそれを指摘できる人間がいないということを示しているのだろうと思います。 これはぼくの想像ですが、プロのドラマ作りができる人間、その眼を持った人間がそばにいないのでしょう。 これが、制作体制について感じることです。
一話の表現など見ると、今でもため息をつきたくなるシーンがあり、新海さんの映像センスの非凡さを感じるほどに、人間描写の稚拙さと、ドラマ作りの弱さ(狭さ)を感じずにはいられません。 これはスキルの話ではなく、人間観の話ですので、やはり一度じぶんよりも大きな「器」の中で生きてみるのが、一つの契機になるだろうと思うのです。 |
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