自分が感銘を受けたあらゆるジャンルの作品を完全な主観で備忘録的に書きとめていきます。 ■このブログの続きとして、【2109年を生きるゲーム職人への手紙。】に移転しました。 ■ときどきネタバレを含むのでご注意のほどを。
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絵柄から若干読者を選びますが、それを補ってあまりあるパワーの溢れまくる怪作です。
『ボーイズ・オン・ザ・ラン』の魅力は、ひとえに主人公・田西敏行の『超ド級のヘタレ具合』です。 ケンカではぼろくそに負け、逃げだし、土下座し、言いたいことも言えず、ションベンちびり、およそ人より優れた部分が一つも見当たらない……その小市民っぷりが、これでもかというくらい描かれる漫画です。 それくらい情けなく、ヘボく、弱いのですが、そのヘタレっぷりこそがこの漫画の最大の魅力で、強烈に共感してしまう麻薬のような部分です。
とはいっても田西の英雄的行動はよく失敗するのですが、それが最高に良いのです。 行動がかっこよく成功するのが漫画的ヒーローです。 これが、この漫画の最大のポイントだろうと思います。
でも。だからこそ。
もう一点触れておきたいのは、この田西の「凡人の持つ勇気」が際立つ名作を支えているのは、作者の力量です。 描画のタッチや勢い、画面構成、物語構成、表現力、キャラクター造形など、どの点をとってもセンスがよく丁寧に作りこまれています。
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そして、押井さんのメッセージ。
それほど、驚愕と感動を感じています。 なぜか? 正直に言って押井さんがこのような作品を手がけると思いもしていなかったから……、ぼくがいま、この時期……時代に打つべきと思っていた作品を、ひとつの理想の形で打ち出してきたからです。 (普段の動向をチェックしていないので)押井さんがこのような作品を手がけるほどに、その人生観を変化させていたことも知りませんでしたし、誰かが出してくるとは思っていましたが、それが押井さんだとは思っていなかったので、衝撃が倍増したわけです。
だから、震えが止まりませんし、この作品発表後の押井さんがどのように歩んでいかれるのか楽しみです。
ぼくのこの胸中の期待感や武者震いを、うまく言葉にできません。
公式サイト掲載のインタビューの中で、一番共感し、表現が押井さんらしいなと思ったのは、この一言です。 <不幸になることさえ恐れなければ、あるいは不幸になる事を覚悟すれば、さらに積極的に言って自分自身が不幸になるという権利を行使する意志があるならば、恐らく人生というものは自分にとって情熱の対象になるのではないか> 「不幸」という言葉は、ぼくならもう少し違う言葉で表現しますが、そこが押井さんらしいのかなと感じました。 これほど今に対して的確で、現実的かつポジティヴで、力強く熱い言葉は、そう巡り逢えないものです。
無意識的であれ気になっていたのには理由があって、やはり、今のぼくにとっては「見るべき作品」でした。
この作品に惹き込まれるかどうかの一つのポイントは、「世の不条理」について、いまもなお葛藤しているか、すでに自分の中での葛藤を終えクリアしているか、だと思います。
この作品は裁判にまつわる「不条理な現実」を描いた映画ですが、これは人間がつくる「(社会)システムの限界」を描いたもので、それを鮮烈に描く題材として「痴漢冤罪」はとても明瞭なものでした。 人間が全能でない以上、完全なシステムというものは存在し得ません。
大切なのは、ここです。
客観と主観と言い換えてもいいと思います。 やや大雑把に違いを書くと…… 「痴漢冤罪」を例にとって説明すると、 これらは、どこか矛盾しているようで、矛盾していません。 被告人と被害者がそれぞれに「そう感じた」という事実は、本物なわけです。
痴漢冤罪だけでなく、ひとが主観で生きる存在である以上、この「事実と真実の問題」から逃れることはできません。
というよりも、「人に心がある」からこそ、主観もあり客観もあるわけなので、これは人間が抱えるジレンマというべきものなのだと思います。
こう考えると裁判官という仕事は、この解決し得ない人の心の問題を引き受ける役割を担っているのですから、大変な負担のかかる仕事だと思います。
ぼくが関心を持ったのは、生きる上でも作品を手がける上でも「事実」と「真実」の違いや、それらがもたらす問題の意味を、しっかりと知っておかなければ『物事の本質』を見落とすという点です。 この「不条理」は、ぼくらが引き受けるべき、答えのない問いです。 現実を生きる以上、何らかの結果や判断をしていくしかありません。だからこそ、そこから生まれてくる問題をぼくらは、抱える、という仕方で、向き合うべきだと思うのです。 だって、この不条理を否定したら、結果として、誰かの想いや感じ方(=心)を否定することになるからです。
被害者も被告人も裁判官も、否定しない。 複雑で答えのない問題に、一面から見た答えを出して終わらせない。 それがこの作品が一番伝えたかったこと……現実の処し方……なのだろうと思います。 そしてその先にあるのは、人の心の肯定なのだと、ぼくは感じました。
この作品のテーマは、今の日本に生きているぼくら(若い世代)が抱える『心の病』に触れるものだと思っています。 「自分探しの幻想」や「青い鳥症候群」に代表されるような、焦がれるようなどうしようもない内的衝動についてです。
そのなかで、まだ主人公が持つ特異な能力『漢神(あやがみ)』の存在する意味について触れてこないところを見ると、クライマックスで一気に明かすようです。 (※)『漢神(あやがみ)』とは、人や物から、その名前の原義(真の意味)を取り出し、武器や力に変える特殊能力のことです。
『漢神』は『漢神』でしかないという点は、ひとまず語られると思うのですが、ぼくの個人的な思いとしては、「それではちょっと踏み込みが足りないのでは?」と思ってしまいます。
この作品が、これまで描かれてきた多くの「自分探し」をテーマにした作品と同じなら、クライマックスに『漢神』の存在意義……と、そこから導き出される答え……が解明され、主人公・往壓(ゆきあつ)が自分の道を見つけ、これからも歩んでいく、といったもので構いません。 ですが、ここまで面白い題材(設定)を用意したのだから、今のぼくらが抱えている『自己肯定感の喪失』といったタイムリーな深いテーマに踏み込んで欲しいところです。 これを描くことを念頭におくと、『漢神』の意味の解明はどちらかというと出発点になります。
「もしかしてそこに切り込んでくれるかな?」という期待を当初から持っていたのですが、2クール構成ならそうではなさそうです。
それでも 「なぜ、彼(彼女)は逃げざるを得なかったか」 そこをしっかり魅せて欲しいと思ったのです。
みんなが幸せになれればいいな。 ぼんやりとそう願ったりすることがありますが、世界から戦争や貧富の差はなくならない。大切であるはずの、ひとや動植物の生命も日々摘みとられていく。 おそらく谷口悟朗監督の命題のひとつでもあり、物語のキーパーソンである『カギ爪の男』は、そのことを考えつづけたキャラクターです。
混沌の側を主人公とした、秩序との対立。 ぼくはナチュラルに秩序側から物事をみる人間なので、谷口監督の逆からの視点はとても面白く楽しませてもらっていますし、メッセージ性バリバリの明確な対立構造と、それぞれの信念に基づくキャラクターたちの命懸けのバトルも大好きです。 ガン×ソードの魅力は、リズミカルで心地よい作品テンポやポリシィの明確なキャラなどもありますが、なんといっても「善の理屈を悪の屁理屈が押しのけていく」ところです。 その思想や考え方・生き方だけをみれば、主人公であるヴァンよりも、敵として登場する者たちの方が、人として正しかったり、まっとうであるにも関わらず、彼らは衝動のままに突き進むヴァンの前に敗れていきます。 そこに、この作品の巧妙さと、たどり着くメッセージがあります。 想いに囚われること、思想に囚われることによって、ひとが見失ってしまうものがあります。
この作品の主人公・往壓(ゆきあつ)が39歳(高年齢)でなければ、ぼくはこれほど注目し、そして深い感銘をうけなかったと思います。
それ以来、彼は『異界(夢の魔力)』に囚われ、『現実(空虚な毎日)』から逸脱してしまい、気がつけばいい大人になってしまっていました。 この生き遅れた感のある男が、ある事件をきっかけに『異界』へ逃げず、『異界』から逃げることもやめ、そして『現実』に踏みとどまる決意をすることで、この物語は幕をあけます。
職も未来もない歳をくった主人公(実は成熟した大人でもあるのですが) 天保という時代を土台に、これらの設定を加えることで、夢と現実の両立や、精神的な自立にすっかり不器用になってしまった今の(日本の若い)『世代観』を、これほどみごとに描き出している、設定の妙にぐっとハートを鷲づかみされました。 妖奇士がストレートに描いているのは、まぎれもなく『いまを生きるぼくら』の姿です。
受け手の感性などによって異なる多様な視点からその作品をとらえたときに、いくつもの解釈で筋が通るようにできている作品は「できが良い」と思います。 たとえば、ぼくは妖奇士を『現代日本の若い世代の抱える焦燥感(ぬるま湯に浸かる自分との葛藤)』といった切り口でとらえましたが、もっと別な解釈もできると思います。
ひとの心に住まう幻想……『ここじゃないどこかを求めるこころ』……は裁けない それに人一倍惹かれながらも、妖夷と戦う『奇士(あやし)』たちの存在 ひとを殺すのでなく、そのひとが作り出してしまう妖夷をこそ倒す。それが奇士の役目なのだということ ひとはひとりひとり異なる。みな異人なのだという言葉 ひとはこの世で生き、生きるために食べるということ ……そういったメッセージたちが、明確かつ力強く作品のテーマを浮き彫りにしていきます。
槇原敬之の『店じまい』です。 アルバムのなかで一番地味なタイトルだったこの歌が伝えようとしていることが、ぼくにとって一番衝撃的で、思わぬ伏兵、完全な不意討ちでした。
じぶんは無関係だと思わない心。 この歌が問いかけてくることはとてもシンプルなことです。 身近な例でいえば、赤信号をみんなで渡るか、渡らないか、というような問いです。
その切り口の鋭さに、本当にどきっとしました。
この歌は痛切に問いかけてきます。 「じぶんひとりがやめたくらいで、世の中は何も変わらないし……」 ぼくらひとりひとりがそう想いつづけているかぎり、社会はいつまで経っても何も変わらないという、至極当然の事実を告げてくれます。
『いま、この歌を聴いたあなたが、明日からもおなじように(社会の一員である自分を無意識のうちに棚上げして)漫然と社会を憂えて生きてくだけの人間だったら、いつまでたっても未来はよくならないぞ』 そう言われている気がして、胸が苦しくなりました。 この歌は、ぼくのなかにあった「何もできないじぶん」という幻想を打ち砕いてくれました。「ぼくの立場じゃなにもできないから」という言い訳をじぶんに対してし続けてきた自分にきづいたのです。 そして、ぼくにできることがたくさんあることに気づきました。 それが『店じまい』です。
知らないうちにじぶんは、異国の戦場の悲劇に(否定しないというやり方でもって)加担・肯定しているのではないか? ぼくらひとりひとりが、そういう問いをじぶんに対して立てないうちは、異国の戦争も終わらないのです。
世界の果てには、何も無いんだ。 どこまで歩いても、同じ道が続いてるだけ。 それなのに……
楽園を、目指せ。』
真っ白な雪景色のなか、点々とつづいていく狼の足跡。 どこまでも、どこまでも。 その情景のなか、ぽつり、ぽつりと語られる心情(狼の言葉)。 一話の冒頭(アバンタイトル)が、この作品を体現していて好きです。 この部分が作品通して語ろうとしている命題をストレートに訴えかけてくるからです。悲哀に満ちた孤独と絶望の中、ひたすらに希望を求めてやまない衝動。
ただただ物語の結末を観たいが為に最終話まで見続けたのは、「楽園を求める」ことが当時のぼくの命題でもあったからです。 そして、この作品は後半の展開にややつまづきを見せながらも、きちんとひとつの答えを明示し貫徹してくれた作品なので、とても好きです。 結末を知ると、この作品がとても王道を走る作品だったのだとわかるのですが、世界設定など、わかるようでわからない良い具合のファンタジーだなぁと思います。
楽園の置き場所や自分の衝動との付き合い方をまだ決めきれず、ずっと彷徨い、狼たちのように走りつづけていたぼくにとって、WOLF'S RAINは一つのヒントをくれた感慨深い一作となりました。
時代(社会)設定とメロスの戦士の位置づけ。「忘却の旋律」と呼ばれる少女の幻影が示唆するもの。 溢れんばかりのメッセージ性にどきっとしました。
序盤にあそこまでエスカレートさせたのだから、より深くより厳然と描いてみてほしかった。テーマについて話し合い、企画とシナリオを深めていく時間が足りなかったのかなと想像しますが、基本設定が良かっただけに悔やまれます。
生み出すことも大変な作業ですが、それと同じくらい(場合によってはそれ以上に)重要なのが、きちんと育てることです。 最終回まで育てきること。 ただ続けるのでなく。真摯に向き合い続けること。 そういった苦労に向き合い、最後まで作品の面倒をみようとすることで、自分自身が磨かれ育てられます。 そういったことを胸に秘めて、しっかりと作品と向き合いたいと思っています。 |
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